FC2ブログ
 

CARL PERKINGS

CARL PERKINGS




sstudios.jpg




800pKGUKGKvg.png




volLHJKLHJLHJLHJKH21.jpg





CARL PERKINGS

カール・パーキンス(Carl Lee Perkins, 1932年4月9日 - 1998年1月19日)は、アメリカ合衆国のロカビリーミュージシャン。初期ロックンロールの立役者としてエルヴィス・プレスリーらとともにサン・ミュージックの黄金期を飾ったうちの一人。代表曲「ブルー・スエード・シューズ」「マッチボックス」「ハニー・ドント」など。

























デビュー前

貧しい農家の次男として生まれる。(兄:ジェイ・パーキンス、弟:クレイトン・パーキンス。後にこの二人と、カールの友人のW. S. ホーランドと共にバンドを結成する。)幼い頃から、カントリー・ミュージックだけでなく、ブルースやゴスペルも聞く様になる。これは、周囲に黒人が多い中、唯一の白人一家だったため、自然と黒人の音楽にも触れる様になった背景がある。パーキンス自体も6歳の頃から綿花農園で働く様になる。やがて、パーキンスは農園で働く黒人からギターを教わる。ビル・モンローやジョン・リー・フッカーを手本にして練習する。そして、今後パーキンスを担う、カントリーのビートでブルースを弾く、ロカビリーの原点を作り上げたのである。ハイ・ティーンになった彼は、リズム・ギター担当の兄のジェイ、ベース担当の弟のクレイトンと共に、パーキンス・ブラザーズ・バンドを結成し、様々なコンテストに出場する。後にドラムスのW. S. ホーランドも加わる。アップテンポの「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」等を演奏する。テネシー州のジャクソンでは有名なバンドになる。1953年、パーキンスは、ヴァイダ・クライダーと結婚する。クラブ等に出演する傍ら、デモ・テープを色々なレコード会社に送るも、全く反応が無く、意気消沈としていた。そんなある日、パーキンスと妻のヴァイダは、サン・レコードから既にデビューしていたエルヴィス・プレスリーのブルー・ムーン・オブ・ケンタッキーをラジオで聴く。エルヴィスの音楽性に自分達を重ね合わせたパーキンスは、対抗意識を燃やし、メンフィスのサン・レコードを訪ねる。幾たびか売り込みに通い、1954年の12月、ようやくオーディションを受けられる事になる。パーキンスが10代の時に既に作っていた「ムーヴィー・マッグ」他数曲披露し、見事合格する。1955年2月、オーディションで披露した「ムーヴィー・マッグ」でデビューする。続く9月発売の「レット・ザ・ジュークボックス・キープ・オン・プレーイング」の頃はハンク・ウィリアムス色が強い。



ブルー・スエード・シューズの大ヒット

1955年11月、エルヴィスがRCAレコードに引き抜かれ、サン・レコードは、エルヴィスに続く看板アーティストとしてパーキンスに白羽の矢を当て、ロカビリー・シンガーとして売り出す。イメージ・チェンジの第一歩として、当初ハニー・ドントのB面曲だった「ブルー・スエード・シューズ」をA面にして、1956年1月1日に発売された。 このシングルは、200万枚を超えるセールスを記録し、同年3月10日付けのビルボード誌トップ100で2位を記録し、カントリー&ウェスタン・チャート、R&Bチャートでも2位を記録する。



成功からの転落

1956年3月21日、ヴァージニア州ノーフォークでのショーを終えたパーキンス一行は、3日後に放送を控えているペリー・コモ・ショーの撮影のため、ニューヨークに向かった。パーキンス一行が乗っていた車は、途中で ピックアップトラックと衝突。ホーランドと兄のジェイは首の骨を折る重症、カールは意識不明だった。弟のクレイトンは事故が元で、身体障害者になってしまう。ピックアップトラックの運転手は死亡という大事故だった。病院に担ぎ込まれたパーキンス一行がテレビを見ると、エルヴィスがブルー・スエード・シューズを歌っている所だった。パーキンスで大ヒットさせたとは言え、まだ世間にはカール・パーキンス本人などは知られていなかった。そんな彼らにとって、全国ネットのテレビはまさに生命線だったのである。世間には、ブルー・スエード・シューズはエルヴィスがオリジネイターであると、ミルトン・バール・ショーの出演で認知されてしまうのだった。



事故後

1956年4月21日、テキサス州ボーモントのビッグ・D・ジャンボリーでのライヴで復帰する。同年夏には、トップ・スターズ・オブ・'56というショーで、たった2曲を演奏して1,000ドルのギャラを貰った。そのショーには、チャック・ベリーやフランキー・ライモン&ザ・ティーンエイジャーズも出演していた。サン・レコードでは、「ボッピン・ザ・ブルース」や「マッチボックス」を録音・リリースし、チャート入りしている。「マッチボックス」では、同じサン・レコードに所属していたジェリー・リー・ルイスがピアノで参加している。しかし、いずれも「ブルー・スエード・シューズ」を超えるセールスには至っておらず、映画『ジャンボリー』内でも歌われた「グラッド・オール・オーバー」を発表し、サン・レコードを去る。



移籍後

1958年、サン・レコードを去ったパーキンスは、コロムビア・レコードと契約を結ぶ。「ジャイヴ・アフター・ファイヴ」や「ロッキン・レコード・ホップ」、「リーヴァイ・ジャケット」等を録音するが、サン・レコードの時の成功はしていない。「ピンク・ペダル・プッシャーズ」、「ポインテッド・トゥー・シューズ」がかろうじてチャート入りしたくらいである。1964年、チャック・ベリーと共にイギリスでツアーをしていた。ツアー最終日、ザ・ビートルズに招待を受ける。リンゴ・スターが「ブルー・スエード・シューズ」のB面に収録された「ハニー・ドント」を歌っても良いか聞いた所、パーキンスは快諾した。そしてビートルズは「ハニー・ドント」の収録を始めた。パーキンスはその場に居合わせたものの、演奏には参加していない。ヒットが無く、アルコール依存症であったパーキンスを、サン・レコード時代からの盟友、ジョニー・キャッシュのバック・ミュージシャンとして雇い入れ、アルコール依存症からの脱却を図ろうとし、見事成功する。やがて、成人した息子達とバンドを組むようになり、空港のラウンジ等でライヴをする。また、パーキンスが書いた「ダディー・サング・ベース」をキャッシュに提供する。また、1970年には、ジョニー・キャッシュの弟、トミー・キャッシュに書いた「ライズ・アンド・シャイン」というカントリー・ゴスペルをトップ10入りに送り込む。



後年

1979年、テネシー州ジャクソンでは児童虐待や捨て子といった社会問題が多発していた。その子供達の写真に、パーキンスは自分の子供達の姿を重ね合わせた。私財を投げ打ち、「カール・パーキンス児童救済基金」を設立する。2年後の1981年に開業する。1981年、ポール・マッカートニーのアルバム『タッグ・オブ・ウォー』にゲスト参加。アルバム中の1曲、「ゲット・イット」を書き、マッカートニーと録音する。 1985年、ジョージ・ハリスン、エリック・クラプトン、リンゴ・スター、デイヴ・エドモンズら、パーキンスを尊敬するミュージシャン、そしてパーキンスは、ロンドンで『ブルー・スエード・シューズ: ア・ロカビリー・セッション』なるコンサートを開く。テレビ番組用に行ったこのセッションは、全曲パーキンスの曲で構成されており全員が楽しく演奏していた。1987年、ロックの殿堂パフォーマー部門に認定された。1992年、喉頭がんを患う。1993年、サン・レコードに戻り、エルヴィスのリード・ギターをしていたスコティ・ムーアとCDを作製する。パーキンスの生前最後のコンサートは、1997年9月15日、ロイヤル・アルバート・ホールで行われた『モントセラト島救済コンサート』で、「ブルー・スエード・シューズ」を演奏した。1998年1月19日、心臓病のため死去した。65歳だった。彼の葬式には、ジョージ・ハリスンや、ジェリー・リー・ルイス、ガース・ブルックス、ジョニー・キャッシュが参列した。



エピソード

パーキンスは、ザ・ビートルズのメンバー全員と1964年に顔を合わせているが、その後もメンバーと顔を合わせている。ポール・マッカートニーとは、タッグ・オブ・ウォーで共演し、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スター両名とは、前述したロカビリー・セッションで演奏している。ジョン・レノンは、1964年に会ったきり再び合った記述が無い。そのため、レノン以外のメンバーは2回顔を合わせている。




carl-perkins[VDVDDDV1]


Million+Dollar+Quartet_convert_20131124113508.jpg


800pmborearPerkins_convert_20131124113942.jpg



com-carl-perkins-and-sam-phillips_convert_20131124113958.jpg





Guide
  •  …この記事と同じカテゴリの前後記事へのページナビ
  • nbsp;…この記事の前後に投稿された記事へのページナビ
 

~ Comment ~

  ※コメントの編集用
  シークレットコメントにする (管理者のみ表示)

~ Trackback ~

卜ラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

MENU anime_down3.gif