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永遠の夢に向かってBuddy Holly & The Crickets

 

Buddy Holly & The Crickets

Buddy Holly & The Crickets




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ジョン・レノンは青年時代、眼鏡をかけることに強い抵抗感を持っていたが、バディが「眼鏡をかけたロックンローラー」として堂々と振舞っていたのを見て、人前で眼鏡をかける事を恥と思わなくなったという。





現代のバンドの基本的な原形を作った彼のバンド、バディ・ホリー&ザ・クリケッツはギター2本とベース、ドラムスでバンドを編成した。当時はロックでもいわゆるビッグバンドスタイルが主流だったが、金がない彼らは、巡業では4人のバンドメンバーだけで演奏することが多く、結果的にそのスタイルが定着した。最悪、バディとドラムのジェリー・アリソンだけで回ったこともある。結果、ビートルズなどの後世のロックバンドに大きな影響を与えた。愛用のギターはフェンダー・ストラトキャスターで、アコースティックギターが全盛だった当時は新鮮であった。1960年代にデビューしたミュージシャンには、彼の影響でストラトキャスターを手にしたと語る者も少なくない。活動後期にはヴォーカルのダブル・トラックやストリングスの導入など、レコーディング・テクニックの可能性を追求し始めており、存命し続けていればさらなる音楽的成長が期待できたとも言われている。





BUDDY HOLLY AND THE CRICKETERS


















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わずか22歳の若さで飛行機事故で亡くなったロックンロールの創始者の一人。バディー・ホリー

ロックの歴史は、ある意味ではエスニック・サウンドのポピュラー音楽化の歴史でもあります。その初期においては、R&Bという黒人エスニック音楽のポピュラー化によって、ロックン・ロールが生まれたわけですが、それはある意味では黒人音楽の白人化でもありました。そして、その立て役者の代表格こそ、あのエルヴィス・プレスリーであったわけです。
 
彼はカントリー音楽という白人たちのダンス音楽をR&Bと組み合わせることによって、ロックン・ロールという新しいポピュラー音楽を白人層に広めることに成功しました。しかし、彼のあまりにセクシーな腰の動きは、当時かなりの反発をかったのも事実で、その拡がりは黄色い歓声をあげる十代の少女たちが中心とならざるを得ませんでした。
 
そんな状況の中、白人の男の子たちの間にロックン・ロール・フィーバーが蔓延し、バンドを組んで演奏する者が急激に増えるきっかけとなったのが、もうひとりのロックン・ローラー、バディー・ホリーの登場でした。彼のもたらした影響の大きさは、日本においてはあまり知られていませんが、多くのロック・ミュージシャンたちは、彼の影響の元、バンドを結成し、後のロック時代を築いて行くことになった。



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しゃくりあげるような裏声を用いて独特のアクセントをかもすヒーカップ唱法や、軽快なビートが特徴である。




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テキサス州の石油と酪農の街、ラボックに4人兄弟の末っ子として生まれる。愛称の由来は、母親が彼の事を「buddy(坊や)」と呼んでいた事からと言われている。家族全員が音楽好きという環境の中で自然と音楽に親しみ、高校時代には親友のボブ・モンゴメリーとバンドを結して、当初は主にカントリーを演奏した。

1953年、バディとボブの2人はベーシストのラリー・ウェルボーンとローカルラジオ局KDAVの30分番組を持つ様になり、その頃にはスリー・チューンズとよばれたカントリーバンドとしてクラブなどで演奏していた。

1955年、エルヴィス・プレスリーとの出会いがあり、その影響でバディはロックンロールに傾倒、自分のバンドにドラマーのジェリー・アリソンを加える。 バディのみに対してデッカ・レコードが契約を申し入れるが、バディはそれに対し不快感を示す。結局親友ボブの説得により、デッカ・レコードと契約。この際、自身の姓を「Holley」ではなく「Holly」と間違えて署名してしまったことからそのまま定着したといわれる。

1956年、ナッシュヴィルのスタジオでプロデュースをオーウェン・ブラッドリー、ギターをソニー・カーティス、ベースをドン・ゲスという構成で1月に4曲のレコーディングをし4月にファーストシングルをリリース。更に7月に3曲、11月に1曲、レコーディングを行い、バディは出来の良さを確信し11月分を12月にリリースするが、全く反響がなく終わる。事実上デッカ・レコードとは契約放棄という形となる。

1957年、バディの理解者であり有能な音楽プロデューサー、ノーマン・ペティのコネクションによりデッカ・レコードの子会社であるコーラル・レコードと契約。その才能を開花させるが、出版に当たりデッカ録音分の版権の問題があった為、新たなバンド名でクリケッツを結成し、クリケッツはブランズウィック・レコードと契約するという形をとる。当初は、バディ・ホリー名義はコーラル、クリケッツ名義はブランズウィックという形をとっていたが、後半は「バディ・ホリー&ザ・クリケッツ」として公式に認められる。


デビュー曲の「ザットル・ビー・ザ・デイ」をはじめ、「イッツ・ソー・イージー」「ペギー・スー」などを大ヒットさせた。


1958年8月15日、プエルトリコ出身の女性マリア・エレナ・サンティアゴと結婚。同年、ホリーはソロとしてクリケッツと別々に活動する事になる。自ずと契約はコーラルのみになりニューヨークでのレコーディングが多くなる事から住所を同地へ移す。音楽性に関してはポップスの傾向が強くなる。




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