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永遠の夢に向かってキング・カズ

 

キング・カズ

キング・カズ














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BOA SORTE KAZU! 三浦知良公式サイト







































三浦 知良

三浦 知良(みうら かずよし、1967年2月26日 - )は、静岡県静岡市葵区出身のプロサッカー選手、フットサル選手。Jリーグ・横浜FC所属。ポジションは左ウイング(ブラジル時代)、センターフォワード(日本帰国後)。妻はタレント・ファッションモデルの三浦りさ子。ニックネームは“カズ”、または“キング・カズ”である。日本代表としてもFIFAワールドカップ初出場に貢献した。ワールドカップ地区予選では総得点を27点記録するも、ワールドカップ本大会へは未出場。Jリーグ年間最優秀選手賞1回、得点王1回、ベストイレブンを2回受賞、1993年にアジア年間最優秀選手賞を受賞。釜本邦茂と共に、国際Aマッチ1試合で6得点の日本代表1試合最多得点記録、通算得点記録(55得点)を持つ(2011年時点)。2012年にはフットサル日本代表としてフットサルワールドカップに出場。1967年2月26日、父・納谷宣雄、母・由子の次男(兄である長男は三浦泰年)として静岡県静岡市に生まれた。叔父(母の弟)にサッカー指導者の三浦哲治がいる。知良(かずよし)という変わった読み方の名前は、父方の祖父に付けられたものだという。1973年、静岡市立城内小学校に入学した。小学時代には、伯父の納谷義郎が監督を務める城内FCに入っていた。小学校4年生の時に両親が離婚、三浦姓を名乗るようになった。1982年12月、私立静岡学園高校を1学年修了を待たずに8カ月で中退し、ブラジルに単身で渡航してCAジュベントスに所属した。当時の三浦は身長が低く、テクニックは持っていたものの他に一流と呼べるような強みはなく、指導者達はブラジルでプロのサッカー選手になりたいという三浦の夢は実現不可能だと考えていた。1984年の秋頃、ジュベントスからECキンゼ・デ・ノヴェンブロ(通称:キンゼ・デ・ジャウー)へ移籍した。1985年頃には夢を諦めた上で日本に帰国することも一時検討したが、最終的に翻意しブラジルでの下積みを継続した。後に本人が語ったところによれば、ふと寄ったリオの公園で現地の貧しい少年達がサッカーをしている様子を見かけたことが、帰国を思い止まる切っ掛けを作ったという。三浦曰く、その少年達の中には裸足の子や片足がない子もおり、ボールも古く汚いものだったが、皆楽しそうにボールを追っており、その様子を見て、「自分には両足も、スパイクも、いいボールもある。何を俺は贅沢なことを言っているんだ」と思い、帰国を思いとどまったとのことである。同年8月、SBSユースに出場したキンゼ・デ・ジャウーの一員として静岡に凱旋し、当時静岡高校選抜に選出されていたディフェンダーの中山雅史、フォワードの武田修宏らと試合を行った。1986年1月 には、サンパウロ州選手権タッサ・サンパウロ (U-21) に日本人として初出場した。同大会やキンゼ・デ・ジャウーの育成組織で活躍したことが、後のプロ契約に繋がっていった。1986年2月、サンパウロ州のクラブであるサントスFCと自身初のプロ契約[4] を結んだ。5月にはSEパルメイラスと特別契約を結び日本でのキリンカップでプロサッカー選手として帰国を果たした。しかしサントスFCで出場できたのは1部リーグ2試合のみに留まり、1986年10月にはパラナ州のSEマツバラへレンタル移籍した。翌1987年の2月にはマツバラと正式契約を結ぶと、レギュラーとして南部三州リーグ優勝に貢献し、同年10月にアラゴアス州のクルーベ・ジ・レガタス・ブラジル(通称:CRB)に移籍した。このクラブでも三浦はレギュラーとして活躍し、日本人で初めてブラジル全国選手権への出場を果たした。1988年、かつてユース時代に所属したサンパウロ州のキンゼ・デ・ジャウーへ移籍した。同年3月19日、SCコリンチャンス・パウリスタ戦で日本人としてリーグ戦で初得点を記録し、格上の人気チーム相手に3-2で勝利するという番狂わせ(いわゆるジャイアント・キリング)の立役者の一人。このときの試合はブラジル全土にテレビ中継されていたため、「三浦知良」という日本人の名前がブラジル全土に知られるきっかけとなった。同年にブラジルのサッカー専門誌『プラカー』の年間ポジション別ランキングで左ウイングの第3位に選ばれた。クラブでの活躍により、三浦はジャウー市から名誉市民賞を贈られている。1989年2月、パラナ州のコリチーバFCに移籍し、パラナ州選手権優勝に貢献した。1990年2月、サントスFCへ4年ぶりに再移籍した。サントス在籍時代にマツバラにレンタルされたとき以来、もう一度サントスでプレーして自分の力を証明したいと思っていたこともあり、三浦はサントスへの移籍に際し、他のチームからの移籍の誘いを断ってサントスと交渉した。移籍後にレギュラーの地位を確保すると、同年4月29日のパルメイラス戦では1得点1アシストと活躍し、チームも2-1で勝利した。翌日のブラジルの新聞はスポーツ紙・一般紙を問わず同試合での三浦の活躍を伝え、この試合の三浦のゴールシーンはブラジルのサッカー専門誌『プラカー』の表紙を飾った。1990年7月、Jリーグ発足が現実味を増す中、日本代表のW杯出場権獲得に貢献するためにブラジルに残ることよりも代表選考の対象となりやすい日本でプレーすることを決断し、日本サッカーリーグの読売サッカークラブ(ヴェルディ川崎 = 現東京ヴェルディの前身)に移籍した。当初、周囲の期待とは裏腹に日本のサッカーになじめずなかなか日本サッカーリーグのリーグ戦では活躍できなかった[23]が、時間の経過とともに徐々に順応を見せた。1992年のJリーグカップではヴェルディを優勝に導いた上、大会MVPにも選出された。この活躍が評価され、三浦は1992年の日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)を受賞した。Jリーグ開幕後は、ラモス瑠偉、北澤豪、武田修宏、ビスマルク、柱谷哲二、ペレイラ、菊池新吉ら他、多くのチームメイトに恵まれ、川崎の名を冠していた時代のヴェルディの黄金期を支えた選手の一人として記憶されることとなった。Jリーグの開幕年となった1993年シーズンのリーグ戦の第1ステージはクラブ内の内紛や日本代表の過密スケジュールの影響を受け不本意な成績に終わったが、7月17日神戸ユニバー記念競技場で行われたJリーグオールスターサッカーでは当時J-EASTで指揮を採っていた松木安太郎監督の下2得点を決める活躍を見せ、大会MVPに選出された。これを切っ掛けとして三浦は本来の調子を取り戻し、自身の結婚式の前日の試合となった7月31日博多の森陸上競技場での第2ステージ第2節ガンバ大阪戦からは6試合連続で得点を記録した。最終的にはシーズンを通して日本人選手ではリーグ内でトップとなる20得点を決めるなど、ヴェルディ川崎をJリーグの初代チャンピオンに導く上で決定的な活躍を見せた。この活躍が評価され、第1回のMVPを受賞した他、前年に続いて1993年の日本年間最優秀選手賞に輝き、1993年のアジア年間最優秀選手賞をも受賞した。また1993年12月にはACミラン主催のチャリティーマッチに招待され、先発出場し、ウーゴ・サンチェスの得点をアシストした。




















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