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LOVE 70s

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Dschinghis Khan - Dschinghis Khan











































1970年代は、欧米を中心に、スタグフレーションが起こる。1970年代後半から、新保守主義の台頭が始まる。文化大革命が終焉。鄧小平の指導体制の下で、1978年から改革開放政策が始まる。韓国で漢江の奇跡(韓国の高度経済成長)。欧米ではロックがポップミュージックの主流となった。ロックの複雑化・多様化が進み、プログレッシブ・ロック、グラムロック・ニューロマンティックが流行したが、末期にはその反動からシンプルで反逆的なパンク・ロックが英米を席巻した。マイクロプロセッサの登場。パーソナルコンピュータが現れ、一般の人々がコンピュータを手軽に使えるようになった。1972年に初の家庭用ゲーム機「オデッセイ」がアメリカで発売された。また、アーケードゲーム『ポン』を大ヒットさせたアタリ社もその移植版となる家庭用ゲーム機「ホーム・ポン」を1975年にアメリカで発売し、家庭用ゲームが認知されるきっかけとなった(第一世代)。1970年代後半にはアーケードゲーム『スペースインベーダー』が日本で一大ブームを巻き起こした。ジンギスカン(Dschinghis Khan)は、1979年から1980年代前半にかけて活躍した西ドイツの音楽グループ。1979年にデビューした西ドイツのミュンヘン出身の男女6人組(後に5人組となる)の音楽アーティストグループ。『ジンギスカン』や『めざせモスクワ』などが世界的に大ヒットした。1985年に解散したが、2005年12月にスティーヴの手で再結成され、2006年から20年ぶりに活動を再開させることが報道された。1993年に他界したルイスと、スケジュールの調整がつかなかったレスリーを除く4人にゲストダンサー3人を加えたメンバーによる初のライブが12月17日にモスクワのオリンピックアリーナで行われた。2006年5月7日にスティーヴが他界し、翌2007年は残るエディナ、ヘンリエッテ、ヴォルフガングの3人に、新たに7人からなる「遺産(The Legacy)」というバックダンス&コーラス集団[1]を加え活動を続けている。その後の2014年以降、ヴォルフガングがパフォーマーを引退しており、オリジナルメンバーはエディナとヘンリエッテの2人のみとなっている。グループ名は、モンゴル建国の英雄「チンギス・ハーン」のドイツ語表記Dschinghis Khan (ジンギス・カン)に由来する。このグループ名は英語圏でもドイツ語表記のままで受け入れられている。しかし、日本版CDでは契約の関係から、英語表記に由来する『ジンギスカン(Genghis Khan)』が用いられている。2005年の復活の後に開設された公式Webサイトは『チンギス・カンとジンギスカンの遺産 (Dschinghis Khan & The Legacy of Genghis Khan)』と名乗り、1979年以来のオリジナル・メンバーを『チンギス・カン (Dschinghis Khan)』、2007年に招集したバックダンス&コーラス集団を『ジンギスカンの遺産 (The Legacy of Genghis Khan)』と呼び、サイト内の情報を分類・整理している。1979年、西ドイツの音楽プロデューサー、ラルフ・ジーゲル (de:Ralph Siegel)と、経済学者であったベルント・マイヌンガー (de:Bernd Meinunger)が、当時人気を博していた西ドイツのアーティスト、ボニーMのヒット曲『怪僧ラスプーチン』 (Rasputin) をモデルとして『ジンギスカン』という楽曲を作った。それをヨーロッパのポップ・ミュージックの登竜門でもある「ユーロビジョン・ソング・コンテスト」に応募するためにメンバーが集められ、結成したのがこのグループである。6人のうちルイスは企画当初からメンバーとなることが決まっており、彼を除く5人はオーディションで選ばれた。1979年のユーロビジョン、ドイツ国内予選ではグランプリを獲得したものの、本選では4位に終わりグランプリはならなかった。楽曲の多くの作詞はマイヌンガーが、作曲はジーゲルがそれぞれ担当したが、後にはグループのメンバーも作曲を手掛けるようになった。アラベスク (Arabesque) は、1977年にデビューし、1984年頃まで活動した西ドイツ(当時)の音楽プロジェクトである。竹の子族などの支持もあり、80年代前期の日本における洋楽の人気の牽引車となり、日本発の人気は韓国・中国語圏などアジアにまで広がった。また、当時のソ連や中南米でも成功を収めたが、一方、本国西ドイツでは「哀愁のマリゴット」(チャート8位)しかヒットしなかった。1977年、西ドイツの実業家であるヴォルフガング・メーヴェス(Wolfgang Mewes)は、当時ドイツから世界に向けてヒットを連発していたボニーMに触発されて、自らもボニーMのようなプロジェクトを作りたいと思い立ち、傘下の音楽出版社でプロジェクトチームを組み、プロトタイプとして「ハロー・ミスター・モンキー」を制作、世界各地に売り込みをかける。1978年、日本のビクター音楽産業が、「ハロー・ミスター・モンキー」の日本での発売権を獲得し、大ヒットを記録。日本ではオリコン洋楽シングルチャートで1978年6月26日付から通算3週1位を獲得した[1]。このヒットによって、それまでいろいろな人物が入れ変わり立ち変わりしていた「アラベスク」は、音楽プロデューサーにジーン・フランクファーター(Jean Frankfurter)、シンガー・チームにサンドラ・アン・ラウアー(Sandra Anne Lauer)、ミシェーラ・ローズ(Michaela Rose)、ジャスミン・エリザベス・フェッター(Jasmin Elisabeth Vetter)という固定したメンバーによるプロジェクトとして活動することとなる。特に1979年から加入しメイン・ボーカルに起用された当時17歳だったサンドラ・アン・ラウアーは、美貌かつ小顔で手足が長いモデル体型の美女で、この頃の日本のアイドルにはいないタイプで人気を牽引した。アラベスクの活動停止後、1982年の日本公演・6thアルバム『キャバレーロに夢中』に参加した、キーボード奏者・ソロアーティスト・プロデューサー(作品にはマイク・オールドフィールドの「アイランド」、ヒューバート・カーなど)として活動していたマイケル(ミヒャエル)・クレトゥのプロデュースでソロ・デビュー、1988年に結婚(現在は離婚)、エニグマ参加に至る。アラベスクとしては長らく活動休止状態だったが、2006年12月、オリジナルメンバーのミシェーラ(Michaela Rose)をメインボーカルに新メンバー、ザビーネ・ケンパー(Sabine Kaemper)、ジルケ・ブラウナー(Silke Brauner)の3人がモスクワのレトロ・FMフェスティバルにゲスト出演し、往年の曲を披露した。世界ツアーやニューアルバムのリリースも噂されている。


















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