FC2ブログ

永遠の夢に向かって「時代遅れ」

 

「時代遅れ」

「時代遅れ」















dimdfdfdfdfdfdfpg_convert_20180611172825.jpg
















カシオ計算機株式会社




































「イノベーション」の意味

イノベーションとは英語の「innovation」のことで、「革新」「一新」などの意味を持つ言葉です。この言葉は動詞 「innovate」 の名詞形で、ラテン語の「リニューアルする」という意味を持つ言葉に由来しています。日本で使われる「イノベーション」には、「革新」「一新」という意味のほかに、「技術革新」「大きな変化」「新しい活用法」などの意味を持つこともあります。つまり、ただ単に新しくするのではなく、これまでの常識が変わるほど社会を大きく動かす技術革新や、新たな概念を指す言葉ということです。実は、私たちのまわりには「イノベーション」の成果であふれています。例えば、インターネットやテレビ、スマートフォンなど。新たなアイディアが生まれ、私たちの生活を根本から変えてしまいましたよね。そのほかには、車や飛行機などの移動手段もイノベーションの成果です。もっと身近なところでは、自動販売機や回転寿司もイノベーションの成果と言えるでしょう。上記の例からもわかるように、イノベーションはこれまでにない発想や従来のやり方の中でアイディアが生まれ、そこにニーズと技術が加わり成り立つものなのです。ビジネス用語としての「イノベーション」は、「次のイノベーションとなりうる製品が必要だ」というように、技術革新という意味で最もよく使われます。しかし、最近ではその枠を超え、サービスやマーケティングなどの分野にも広がり、「新機軸のサービス」や「新たな価値観の提案」という意味でも使われるようになりました。また、ITを活用したイノベーションも注目され、仕組みや情報を活用した変革が進んでいます。ビジネスシーンでは、「イノベーション戦略」「コンセプトイノベーション」「マーケティングイノベーション」など、他の語とともに使われることもあります。どちらにしても、これまでの価値観や常識がリニューアルされ、企業がその変化から利益を得ようとするときに使うのが適しているでしょう。


「時代遅れ」と酷評されたカシオ創業者が、イノベーションのためにやったこと

今ではイノベーションが起きにくいといわれる日本ですが、かつてイノベーションによって世界的大企業へと躍進した日本企業は少なくありません。その一つが世界初の小型純電気計算機「カシオ14-A」や世界初のパーソナル電卓「カシオミニ」など多くの「日本初」「世界初」によってさまざまな分野でイノベーションを起こしたカシオ計算機(以下「カシオ」)です。同社を率いたのは有名な「樫尾四兄弟」の長男・樫尾忠雄でした。


これからの職人は腕だけではダメだ

 1917年、父・茂、母・キヨノの長男として高知県南国市に生まれた樫尾忠雄はわずか5歳の時に両親と妹の親子4人で東京に移り住んでいます。農業以外に焼き物などの副業を行っても食べるのが精いっぱいという暮らしの中、東京で大工として働いていた叔父からの「東京に出てきて大工の仕事を手伝ってくれないか」という誘いを受けての上京でした。 上京してしばらくは大工仕事を手伝っていた父・茂ですが、その後は左官の仕事、建築材料問屋の配達の仕事などを懸命にこなします。しかし、一家の暮らしは決して楽なものではありませんでした。そんな両親を見て育った樫尾忠雄は、尋常高等小学校を卒業するとためらいなく就職の道を選びました。「いよいよ、自分で働いて両親を助けられる」と思って、とてもうれしかったといいます。 1931年、14歳の樫尾忠雄は治工具の製造会社・榎本製作所に旋盤工見習いとして就職しますが、それは樫尾忠雄にとって「これはおれの天職だ」と本気で思えるほどのものでした。 実際、覚えが早く、腕も良かった樫尾忠雄ですが、そんな氏を見込んだ工場主の榎本博史は、「学校の月謝分まで給料を上げるから、働きながら専門学校へ行って勉強しないか」と勧めたことが転機となりました。「これからの職人は腕だけではダメだ」というのが榎本博史の考えでした。 榎本博史の勧めもあって早稲田の工手学校に進んだ樫尾忠雄は昼は仕事、夜は勉強の毎日を送りながら技術と知識の両方を身に付けていくことになりますが、この時期は樫尾忠雄にとって大変ではあっても、「本当に充実した時代」だったといいます。 とはいえ、家は狭く、苦しい生活の中で「もう少しまともな生活がしたい」というのも樫尾忠雄や弟たちの共通の願いでもありました。その後、日本バルブ、日本タイプライター精機製作所を経て、独立する決意を固めた樫尾忠雄は1942年、吉岡製作所の分工場という形での独立を果たすことになりました。25歳の時です。


下請け仕事をやめ、ヒット商品の開発へ

物不足の時代だけに仕事はいくらでもありましたが、空襲によって工場を失った樫尾忠雄は終戦後、東京都三鷹市に引っ越して鍋や釜、電熱器や自転車の発電ランプなどをつくりながら生計を維持、1946年4月、樫尾製作所を設立、正真正銘の独立を果たすことになりました。 当初は下請け仕事の一方で電動のうどん製造機や、ぽんせんべいをつくる機械などを製造販売していましたが、忙しい割には「あまりうだつが上がらない」時代でした。そんな樫尾忠雄を気の毒に思ったのでしょうか、逓信省の東京電気通信工務局(NTTの前身)に勤務している弟の樫尾俊雄から「俺が何か考えるから、それをつくればいい」という提案がありました。いつまでも下請け仕事をしているだけでは限界があります。せっかくの出世コースを捨てて町工場に入るという樫尾俊雄の申し出を最初は断った樫尾忠雄ですが熱意に押されて一緒に歩むことを決意しました。 そうして、二人三脚で生み出した最初のヒット商品が「指輪パイプ」でした。いつもタバコを身近に置いておきたいというニーズに応えたことで指輪パイプは大ヒット、ここで得た資金がのちの計算機開発で大いに役に立つことになりました。


「時代遅れ」の計算機

ただ、どんなヒット商品にも寿命があります。次に何をつくろうかと考えていた樫尾忠雄と樫尾俊雄は1949年、銀座で開かれた第一回ビジネスショーで電動計算機に出会い、計算機の開発を決意します。 当時の計算機は電子回路ではなく歯車で動くもの。海外ではモーターで歯車を回すものができていましたが、当時の日本の加工技術には限界があり、手回し式の計算機しかつくられていませんでした。しかも電動計算機は遅いうえに、すさまじい音がしました。 日本にあるのは輸入品ばかりで、値段が高く、大企業にしか買えないと知った樫尾忠雄と樫尾俊雄は自分たちでつくることを決意。1954年12月、小型純電気式計算機(ソレノイド式)の試作機を完成しました。 昼は生活のための下請け仕事をして、そのお金を使って夜に研究をするという生活は苦しく、何度も挫折しそうになったといいますが、誰かが「もうやめよう」と言い出しても、4人兄弟の誰かが「もう一回だけやってみよう」と励ますことで挑戦を続けられたといいます。 そうしてようやく完成した試作品でしたが、計算機を扱っている商社に持ち込むと連乗機能がない計算機は「時代遅れだ」と酷評されてしまいました。最先端の計算機がどの程度の機能を持っているかを知らなかったための失敗でしたが、当時、日本の大企業も同様の挑戦をしては敗退する、という難しい挑戦でもあったのです。


「捨ててやり直す」という英断

それでも諦めきれない樫尾忠雄と樫尾俊雄はさらに改良を重ね、1956年には量産一歩手前までこぎ着けますが、そこで俊雄氏は「ソレノイド」をやめて、「リレー(継電器)」を使うという大転換を決意します。 それは、これまでの苦労をすべて無にするものでした。「これはうまくない」と気づいたとき、多くの人がやる過ちは「でも、ここまでやってきたんだから、いまさらやめるわけにはいかない」と続けて深みにはまることですが、忠雄と俊雄にはあえて「捨てる」勇気が備わっていました。 そして、それは正しい決断でした。ソレノイドは機構が複雑で量産が難しいのに対し、リレー式にはそうした欠点がなかったのです。当時、富士通がリレーを使った大型コンピューターをつくっていましたが、それはビルの一室を占拠するほどの巨大なものでした。 樫尾忠雄と樫尾俊雄は大型コンピューターなら10,000個も使うというリレーをわずか341個に抑え、フルキーに代わってテンキーを開発するなどの工夫を重ね、方針転換から半年後にはリレー式計算機を完成させたのです。 ところが、1956年の暮れ、完成した計算機を札幌で発表するため飛行機に積み込もうとしたところ、大きさの制限にかかり計算機の頭の部分を外すことになり、トラブルが起きました。精密機械にとって安易な分解ほど危険なことはありません。札幌に着いて改めて組み立てたものの計算機は動いてくれず、発表会は失敗に終わりました。 すっかり落胆した樫尾忠雄ですが、そこに内田洋行から「扱いたい」という申し出があり、カシオがリレー式計算機を開発・製造して、内田洋行が販売を行うという契約を交わすことになりました。長年の苦労が報われた瞬間だったといえます。


「ベストの商品もすぐにベストでなくなる」

1957年6月、カシオ計算機を設立、社長には父親の樫尾茂(1960年から樫尾忠雄が社長に)が就任しました。リレー式計算機のヒットによりカシオは順調に業績を伸ばしていきますが、そこに大きな落とし穴がありました。業績の好調さに安心した樫尾忠雄たち4兄弟はゴルフなどに夢中になり、本業への集中力が薄れたのか、技術革新への対応が後手に回ってしまったのです。 1964年7月、シャープが電子式計算機を発売するなど、時代は電子式に移っていましたが、リレー式があまりに好調なカシオは研究はしているものの、本格的な製品化からは立ち遅れていました。まさに成功した企業が成功した商品への過度な依存から危機に陥る「イノベーションのジレンマ」の典型でした。 在庫の山を前に創立以来初の危機に立った樫尾忠雄は電子式への転換に全力を注ぐことを決意、1965年に最初の「メモリー付き電子式卓上計算機カシオ001」を発表、計算機事業を再び成長軌道に乗せることに成功しました。 こうした出来事を通し、樫尾忠雄は「おごることの恐ろしさを、骨身にしみるほど味わった。技術的におくれをとったら大変なことになる。今度失敗したら経営者失格だ」と肝に銘じたといいます。 その後、カシオは計算機以外にも世界初のパーソナル電卓「カシオミニ」や電子楽器「カシオトーン」、腕時計の「Gショック」など数々のヒット商品をつくり続けることになりますが、こうした飽くなき商品開発の理由を樫尾忠雄はこう話しています。 「あらゆるものについて2、3カ月も同じだとおかしいと思え」「ベストの商品も1カ月立ち2カ月経つとベストでなくなる」「需要があるから開発するというのではなく、新しい技術があれば市場がつくり出せる」電卓も「オフィスの合理化のための機械」と考えれば、市場規模に限界がありますが、価格を安くしてより使いやすくすれば「一課に一台」から「一家に一台」、さらには「一人に一台」とその需要は果てしなく広がっていきます。 技術や創造の力を信じ技術立国日本を牽引した忠雄は、1988年に社長から相談役に退き、1993年に逝去しています。






















Guide
  •  …この記事と同じカテゴリの前後記事へのページナビ
  • nbsp;…この記事の前後に投稿された記事へのページナビ
 

~ Comment ~

  ※コメントの編集用
  シークレットコメントにする (管理者のみ表示)

~ Trackback ~

卜ラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

MENU anime_down3.gif