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永遠の夢に向かって憎みきれないろくでなし

 

憎みきれないろくでなし

憎みきれないろくでなし




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沢田研二

沢田 研二(さわだ けんじ 65歳 )は、日本の歌手、俳優、作詞・作曲家。本名、澤田 研二。ニックネームはジュリー(由来は沢田本人が女優のジュリー・アンドリュースのファン)。鳥取県鳥取市生まれの京都府京都市育ち。妻は女優の田中裕子。前妻は元ザ・ピーナッツの伊藤エミ。

1960年代後半のグループサウンズ全盛期から活躍し、ソロとしてのシングル総売上は1,239万枚(1982 - 1991年の9年間は歴代1位の座を保つ)。ザ・タイガース、PYG時代を含めると1,666万枚になる。



影響

バックバンドをひきつれて全盛期には1日3回もテレビに出演。歌番組だけではなくザ・ドリフターズなどのバラエティ番組にも出演し、「お茶の間のアイドル」として活動しながら、タブー視されていた「男性のアクセサリー」や「化粧」、「バンドサウンド」を日本の一般家庭に浸透させ、歌謡曲とロックを融合させたのが沢田研二である。

早川タケジのデザインによる、羽毛のマフラー、アメリカのポリス帽、演奏中に煙草を吸う、短剣や拳銃を使用、ハーケンクロイツの腕章、背中に刺青、化粧(時には男装の麗人として赤い口紅をすることすらあった)、またウィスキーのポケットボトル、ブルーやゴールドのカラーコンタクト、金属の仮面、女性の裸身コスチュームを身にまとった。沢田は常に帽子を斜めにかぶり、頰にほくろのある左目しか見せないポーズで歌うなど、エロティシズムと退廃美を帯びたスタイル、いわゆるグラムロックを日本のミュージックシーンにはじめて取り入れた

ザ・タイガースやPYG、ソロ時代を通して多くのヒット曲を持つことから、B'zの稲葉浩志やDER ZIBETのISSAYをはじめとして、河村隆一、清春、BUCK-TICKの櫻井敦司、福山雅治、ZIGGYの森重樹一ら、楽曲をカバーする歌手は後をたたない

過去映像を見た若い世代から「かっこいい」というコメントが大量に寄せられるという(テレビ番組での生田斗真、松本潤ら)。最近では平井堅が沢田をモチーフにした「お願いジュリー」というアルバム曲を出している。

日本以外での影響は、中国語圏で「時の過ぎゆくままに」が「愛你一萬年」などのタイトルで数々の歌手にカバーされ、2012年現在、カバーされた日本の楽曲では最も多い 。

香港では、『日本のデヴィッド・ボウイ』と称され、「OH!ギャル」もヒット。人気歌手で俳優でもある林子祥(ジョージ・ラム)が「澤田研二(ザーテン・インイー)」というタイトルで「香港の歌手は沢田研二の歌曲を賛美する」という内容の曲(作詞は鄭國江、作曲は沢田がフランスで発売した「Itsumi」をカバー)を出している。

アイドル歌手の石野真子によって「ジュリーがライバル」という曲もヒットしたが、沢田好きが高じてリングネームにしているプロレスラー、楽曲をタイトルにしたゲーム、沢田研二・ジュリーという名前が登場する小説、マンガ、オマージュしたBL系、またカバーバンドも多く存在する。

沢田による作詞・作曲は、毎年アルバムを作るため持ち歌は膨大な数にのぼる。ザ・ピーナッツ「東京の女」、内田裕也「きめてやる今夜」、高樹澪、シブがき隊、リタ・クーリッジ、松田優作、田中裕子など、多くの歌手や俳優に詞・曲を提供。中でも1982年にアン・ルイスが歌った「ラ・セゾン」(作詞は三浦百恵)はオリコン10位以内のヒットとなった。

楽曲提供者は、大野克夫、加瀬邦彦、阿久悠、安井かずみ、吉田建、覚和歌子、井上陽水のほか、八島順一、佐野元春、大沢誉志幸、DER ZIBETの吉田光、サエキけんぞう、朝本浩文、大村憲司、NOBODY、すぎやまこういち、西平彰、マルコシアス・バンプの秋間経夫、松任谷由実、忌野清志郎、佐藤隆、かまやつひろし、伊集院静、頭脳警察のPANTA、佐橋佳幸、吉田Q(順不同)など、シンガーソングライター、ロックミュージシャン、詩人、作家の垣根を越えて幅広い。その上、沢田の俳優としての資質が加わり、「漂泊者のアリア」で日本のオペラ歌手藤原義江役や、オペラ・歌舞伎・タカラヅカ出身者が入り混じった三代目市川猿之助(現・市川猿翁)演出のスーパーオペラ「海光」の主演スサーノ役、さらに音楽劇ACTシリーズで『愛の賛歌』『 バラ色の人生』というシャンソンまで歌いこなしている。

「声の色気では断トツの日本人ナンバーワン」として、音楽界の識者たちから歌のうまい歌手総合第5位にランクイン。





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生い立ち

1948年6月25日、京都市左京区の澤田松雄、智恵子夫妻の次男として、両親の実家がある鳥取県岩美郡津ノ井村(現・鳥取市津ノ井)で誕生。このためNHK紅白歌合戦の出身地では「鳥取出身」と「京都出身」と表記されることもあった。戸籍上の名前では、“研”という文字の右下に点がある。当時、父親が火薬研究所の取引先に勤務しており、二番目の子だったため「研二」と命名された。京都市立第三錦林小学校、同・岡崎中学校卒業後、1964年4月、京都府立鴨沂高等学校入学、後に同校を中退。中学では野球部のキャプテンを務め、高校では空手部に所属。


ザ・タイガース期

京都のダンス喫茶「田園」でドアボーイのアルバイトをしている時にサンダースに声をかけられ、17歳の沢田はローディー兼ボーカリストになる。そのステージを見たサリーとプレイボーイズのサリー(岸部修三(現・岸部一徳))から沢田はリード・ボーカルとして誘われ、翌年の元日にサリーとプレイボーイズに正式加入、グループ名は「ファニーズ」と改めた。

ファニーズは、大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」に出演した際に、上条英男、スパイダクション(現・田辺エージェンシー)、そして共演したロック歌手の内田裕也からも声をかけられた。しかし具体的な話が進まなかったため、当時リーダーであった瞳みのるが東京代々木上原の内田裕也宅を訪ね、瞳の熱意の甲斐あってメンバー全員が渡辺プロと契約。上京後、ザ・ヒットパレードのプロデューサーであったすぎやまこういちによって、テレビ番組の
出演直前に「ザ・タイガース」と新たに名付けられる。

1967年2月5日にシングル「僕のマリー」でデビュー。阿波踊りのリズムを取り入れたセカンド・シングル「シーサイド・バウンド」で人気爆発、続く「モナリザの微笑」、そして「君だけに愛を」で一気にグループサウンズ (GS) の頂点へと躍り出る。とりわけ端整な美貌の持ち主である沢田は10代の少女を中心に熱狂的な人気を博し、一躍
国民的アイドルとなった。

ザ・タイガースは、1971年1月24日、日本武道館で行われた「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」で解散。


PYG期

ザ・タイガースの解散後、沢田は1971年2月1日、新たなバンド・PYGに参加する。当時、欧米で結成されたブラインド・フェイスやプラスチック・オノ・バンドのようなスーパーバンドを模した形で、ザ・スパイダースから井上堯之と大野克夫、ザ・テンプターズから萩原健一、大口広司、ザ・タイガースから沢田と岸部修三という6人のメンバーによって結成された。このバンドは沢田と萩原によるツインボーカルで、井上、大野、岸部ら作詞や作曲ができる技巧派が揃い、本格的なニューロックを目指した。

しかし、日本ではまだ反体制のジャンルとするロックを、当時最大手の芸能事務所だった渡辺プロダクションの所属ミュージシャンが演奏することに対し、『芸能界が創り出したもの』としてライブではトマトや空き缶を投げつける聴衆もいた。音楽的には「花・太陽・雨」、「自由に歩いて愛して」など、哲学的で重厚なサウンドの佳曲を発表。短い活動期間だったが、「バンドサウンド」「バンドメンバーによる音楽作り」という現在に至るまで一貫した沢田のミュージックスタイルの基礎となった。


ソロ活動 - 全盛期

1971年11月1日発売のシングル「君をのせて」でソロデビュー。オリコン最高位は23位だった。GSの先輩であったザ・ワイルドワンズの加瀬邦彦プロデュースのもとに、十数年にわたって音楽ランキングトップ10にチャートインし続けた沢田のソロ活動のスタートであった。

1972年3月11日発売の「許されない愛」、続いて「あなただけでいい」がヒット。もう1人のボーカルである萩原健一の俳優活動が本格化してPYGは実質的に形骸化、メンバーは沢田のバックバンド 井上堯之バンドとして活動していくことになった。

1973年4月21日発売の「危険なふたり」が65万枚を売り上げソロ初のオリコン1位を獲得、第4回日本歌謡大賞を受賞(歌謡大賞歴代視聴率最高の47.4%を記録)。この作品からスタイリストとして早川タケジが参加し、以降、斬新なファッションが確立されることになった。翌1974年には「追憶」が58万枚を売り上げ2曲目のオリコン1位を獲得した。

1975年5月発売のシングル「巴里にひとり」(仏題「MON AMOURE JE VIENS DU BOUT DU MONDE (恋人よ、世界の果てから僕は来た)」)でフランスに進出。フランスの週間ラジオチャートでトップ4に入るヒットとなり、フランスのゴールデンディスク賞を日本人として初めて受賞する。

同年6月4日の27歳の時、7年間の交際を経てザ・ピーナッツの伊藤エミ(当時34歳)と結婚。同年7月20日、比叡山延暦寺で結婚式を行った。同日、沢田の比叡山ライブ(比叡山フリーコンサート)において夫婦揃ってステージに上がり、ファンに対して結婚報告を行った。

同年8月21日に発売された「時の過ぎゆくままに」は5週連続オリコン1位で92万枚の売り上げを記録、沢田にとって最大のヒット曲となった。同曲は、沢田との仕事を熱望していた久世光彦が渡辺プロダクションに企画書を持ち込み、同じく作詞の提供を望んでいた阿久悠が協力。時効を間近に控えていた3億円事件をテーマにしたTBSドラマ「悪魔のようなあいつ」は、今でいうボーイズラブ (BL) の要素をふくみ、犯人役のクラブ歌手の沢田がけだるく退廃的に歌った。なお、共演した岸部修三はこのドラマの放映開始から間もなく井上堯之バンドを脱退、岸部一徳と改名し俳優の道を進んだ。

久世の企画書には「この曲でレコード大賞を獲る」ということまで書いた作品であったが、同年12月7日に東京駅新幹線ホームにあふれたファンのことで文句を言った駅員と沢田が口論になり、駅員に対して頭突きをする暴行事件を起こす。結果的にその後に行われたレコ大では候補から外れた。翌1976年5月16日にも再び新幹線車中で乗客にからまれ、沢田が揉みあいの末に殴打し、二度目の暴行事件として「暴力人気歌手」とマスコミに報道され、1ヶ月間謹慎。同年9月に久世の作詞、沢田の作曲の「コバルトの季節の中で」で復帰したが、活動再開後もNHK紅白歌合戦、賞レースを全て辞退した。

翌年の1977年2月発売の「さよならをいう気もない」では、金色のキャミソールという衣装で登場。同年5月に発売された「勝手にしやがれ」はソロとして4曲目のオリコン1位を獲得。5週1位を保ち89万枚を売り上げた。曲中にかぶっていたパナマ帽を飛ばすというパフォーマンスは、子どもが学校でマネをするほど大きな話題となった。この曲で、第19回日本レコード大賞を受賞。レコード大賞で歴代視聴率最高の50.8%も記録した。その他第8回日本歌謡大賞(視聴率46.3%)など、同年の主要な賞レースを独占した。

ソロデビュー以降、すでに主要な賞レースの常連であった沢田だが、レコ大受賞シーンでは、駆けつけた萩原健一や岸部一徳などのザ・タイガース・PYG時代からの仲間に対して涙を見せた。


ヴィジュアル期

GS時代、ビートルズやローリングストーンズなどの洋楽のカバーからスタートした沢田にとって、当時最先端の洋楽のミュージックシーンやサウンドを取り入れることはごく当たり前のことだった。1974年、日比谷野外音楽堂ライブでインディアンのようなチークをしたり、1975年の比叡山ライブでブルーのラメ入りのアイシャドウをするなど、化粧は早くからステージで行っていた。プロデューサーである加瀬邦彦は「もっと色っぽく、いやらしく歌って」「もっと過激にいこうよ」と進言していたが、お茶の間に流れる一般のテレビ番組ではまだ控えていた。しかしマスコミによって「暴行事件」、「暴力人気歌手」と大きく報じられたことを契機に、沢田はこれまでの意識を変える。謹慎中はテレビの音楽番組を詳細に研究し、「身を削って恥をかき、バカなことをしても怖くない。見て面白いことをしよう」と、「さよならをいう気もない」以降、ヴィジュアルを重視したバンドスタイルをエスカレートさせていく。

「さよならをいう気もない」では金色のキャミソールという衣装だったが、「勝手にしやがれ」ではホストをイメージした衣装で帽子を投げ飛ばし、「憎みきれないろくでなし」(63万枚のセールスを記録)はタバコを吸い、ポリス帽で片目を隠し、黒の皮パンの腰をうねらせ、曲の間奏で井上堯之バンドと身体をすり寄せた。 1978年に発売した「サムライ」(52万枚のセールス)はナチスをイメージする黒の上下に裸の入れ墨、「ダーリング」は水兵のセーラー衣装、「LOVE (抱きしめたい)」はスタジオに雨を降らせ、血で染まった包帯を手に巻いた。

「LOVE (抱きしめたい)」は第20回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。同年の第29回NHK紅白歌合戦で、それまで演歌歌手に限られていたトリを、ポップス系の歌手として初めてつとめる(対抗の女性歌手は山口百恵)。この1978年を例にとると、年間のテレビ出演700本以上、ラジオ300本、取材300本、地方公演100日。過剰なほどの露出によって、バンドサウンドをお茶の間に浸透させていく。

1979年に発売された「カサブランカ・ダンディ」ではウイスキーを口にふくんで霧のように吹き、同年「OH! ギャル」ではマレーネ・ディートリッヒをオマージュしたメイクをした。1980年、「TOKIO」では250万円の電飾衣装にパラシュートを背負った。同年の「恋のバッド・チューニング」では装着したカラーコンタクトが青や金色に変化し、「酒場でDABADA」ではハンカチを口にした沢田に3人のギタリストがすりよるパフォーマンスをみせた。

しかし、当時の「ジュリー」をサポートしていたのは、決してプロデューサー加瀬邦彦、衣装早川タケジだけではなかった。「TOKIO」のテレビでの初登場は、1980年1月1日午前0時。糸井重里作詞のテクノサウンドであったが、過激なコスチュームに走る沢田に対して、PYG以来活動を共にして来たバックバンドのリーダー井上堯之は「もうついていけない」と語り、井上堯之バンドは同年1月24日に突如解散する。井上バンド解散による心身の疲労、「テレビで沢田研二を見ない日はない」と言われるほどの超過密スケジュール等が重なり、同年4月に胃潰瘍で1ヶ月間入院した。

井上バンドの解散を受け、新たなバックバンドとしてベーシスト吉田建を中心に、ALWAYS、EXOTICSを相次いで編成。吉田建は「渚のラブレター」、「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」、「麗人」、「おまえにチェックイン」、「6番目のユ・ウ・ウ・ツ」というオリコン10位以内にチャートインした楽曲はもちろん、80年代後半以降も沢田のアルバム制作に携わり、70年代にトップレベルだった井上バンドのサウンドを、よりロックテイストに進化させていく。1981年発売のシングル「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」は、沢田自身の作曲したシングルとしては最高の36万枚のセールスを記録した。

ソロ活動と並行して、1981年1月、ザ・タイガースが瞳みのるを除くメンバー5人で10年ぶりに再結成。GS時代に縁のあった日劇が取り壊されることとなり、最後の日劇ウエスタンカーニバルに出演するためだったが、これを契機に同年秋、「同窓会」と銘打った企画で11年ぶりにシングル「十年ロマンス」を発売、翌年に発売された2枚目となるシングル「色つきの女でいてくれよ」は化粧品会社とのCMタイアップもあり、オリコン上位にランクイン、武道館を含む全国ツアーを行う。

第34回NHK紅白歌合戦では、ジャングルビートの「晴れのちBLUE BOY」で金杯(最優秀歌手)を獲得。軍服にサーチライトを装着したコスチュームで登場した。

俳優としては、1979年に公開された映画「太陽を盗んだ男」(長谷川和彦監督)で原子爆弾を作る理科教師を演じ、第4回報知映画祭でグランプリにあたる作品賞と主演男優賞を受賞、キネマ旬報読者選定邦画ベストテン第1位に選ばれた。日本アカデミー賞では主演男優賞にノミネートされる。

1981年の映画『魔界転生』では天草四郎に扮し、これは企画段階から千葉真一の柳生十兵衛と共にキャスティング決定事項として進められた。クランクイン後は本作以外のスケジュールを全てキャンセルして撮影に専念し、ジュリーのイメージを払拭する演技を披露。観客動員数200万人、興行収入17.9億円を超す作品となった。

CMにも多数出演し、中でも、1979年11月に新型となった日産自動車のブルーバードの910型のCMに出演し、「ブルーバード お前の時代だ」のキャッチフレーズで、同車が小型車(1600 - 2000ccクラス)で連続27ヶ月登録台数1位を記録してブルーバードの910型の大ヒットに貢献した。1983年10月に新型となったU11型のCMにおいても「ブルーバード お前はスーパージェネレーション」のキャッチフレーズで引き続き出演し、1979年11月から1985年8月までの約6年の長い期間にわたって日産自動車のブルーバードのCMに出演、自らCMソングも歌った。


独立期

1985年1月からの半年間の休養を経て、沢田はデビュー以来所属してきた渡辺プロダクションから独立。渡辺プロダクション傘下の"株式会社ココロ"を設立し、レコード会社もポリドールから東芝EMIに移籍した。同年6月に自叙伝『我が名はジュリー』(玉村豊男編 / 中央公論社)を刊行。8月発売の移籍第1弾の作品は、沢田自身が作詞・作曲したシングル「灰とダイヤモンド」。ペンネームの「李花幻」は「いいかげん」をもじった遊び心から。新たなバックバンドとしてチト河内を中心にCO-CoLOを結成。

1987年1月、伊藤エミに慰謝料18億1,800万円を支払い、離婚。1986年8月から伊藤と別居していた沢田は、1982年の映画『男はつらいよ 花も嵐も寅次郎』で共演した田中裕子と不倫していた。田中とは1989年11月に出雲大社で再婚することとなる。1987年3月に京都公演中のステージから転落し、左肘骨折・肋骨打撲で1ヶ月間入院。のちに「転機は離婚だった」と認め、ミュージシャンとして絶頂を極め、俳優まで幅を広げて活動していた沢田にとって、この年はターニングポイントとなった。

「中性的」「甘い美貌」といわれた外見に対して、ザ・タイガース時代から周囲の沢田評は、「地味」「無口」「やんちゃ」とすべて硬派。無口で地味、その生来の沢田の性格が反映された作品が、「CO-CoLO 1 〜夜のみだらな鳥達〜」をはじめとしたCO-CoLO 3部作、独立期初期のアルバムである。CO-CoLO 3部作は、沢田の作詞した作品を技巧派のバンドメンバーがダークなメロディラインで曲を作った。音楽関係者の評価は変わらず高かったが、当時のミュージックシーンには受け入れられなかった。ロングソバージュの髪型で歌った「女神」、「きわどい季節」などのシングルを発表し、1988年、3年間活動を共にしたCO-CoLOを解散。

1989年、吉田建をプロデューサーに迎え、村上'ポンタ'秀一を加えて新バンドJAZZ MASTERを結成し、アルバムでは「彼は眠れない」、「単純な永遠」、「REALLY LOVE YA!!」を発表。

1989年から10年間に渡って継続する音楽劇 ACTシリーズがスタート。同年末の「第40回NHK紅白歌合戦」ではシングル「DOWN」の他、ザ・タイガースとしても出場し、同番組の出場者としては初めて同一回で2度出場した。

1991年デビュー25周年を記念してCD化されていなかった旧譜が東芝EMIより発売。25周年にちなみ、NHK-BS2では5日間計25時間の特集番組「美しき時代の偶像」が放送された。

1992年から、沢田は「懐メロ歌手ではない現役の歌手だから」と、音楽番組での過去の映像の放映を許可しなくなる。1994年には「HELLO」で紅白に出場。 1995年のアルバム「sur←」以降は、「これからは、自分のやりたい音楽を、やりたいようにやっていきたい」とし、沢田がセルフ・プロデュースを宣言。1996年のツアーでは、髪をピンクに染めて「あんじょうやりや」の全国ライブを行う。1997年には岸部一徳、森本太郎とともにユニット"TEA FOR THREE"を結成し、「君を真実に愛せなくては他の何も続けられない」を発表。

この独立期は、毎年のライブツァーは行うものの、毎日のように出ていたテレビから一線を画す。俳優としてNHKの連続テレビ小説「はね駒」や大河ドラマ「山河燃ゆ」「琉球の風」、映画「カポネ大いに泣く」「夢二」ほか、フジテレビ「プロ野球ニュース」の準レギュラーゲスト、各社大手有名企業のCMに出演した。アルバムでは「架空のオペラ」をはじめとした作品をリリース。だが、東芝EMI時代に発表されたアルバムは現在、廃盤になっており、村上'ポンタ'秀一が「手がけたアルバムの中でナンバーワン」と推した、「彼は眠れない」でさえ再リリースされていない。


2000年以降

2001年に過去の映像の放映解禁と同時に音楽番組「うたばん」にシングル「耒タルベキ素敵」で出演、また情報番組「新常識クイズ!目からウロコ」の司会を担当したが、その後、テレビ番組への露出はセープ。NHK紅白歌合戦の誘いも固辞、全国ライブツアーや音楽劇、アルバム制作、舞台の主演俳優として活動している。

2002年自主レコードレーベルとなるJULIE LABELを設立。このレーベルからリリースされた沢田のオリジナル・アルバムは目玉焼きなどの独特のパッケージ・デザインが施されている。この頃から沢田の作詞に「平和」という歌詞が多く用いられるようになる。

2005年には、ポリドール在籍時代のアルバム21タイトルと3枚のベスト・アルバムのリマスター盤が相次いで再発売され、そのうちベスト盤「ロイヤル・ストレート・フラッシュ」がオリコンの邦楽アルバムTOP50にランクインした。

2008年、60歳の還暦を記念して、初の二大ドームコンサート「沢田研二 還暦記念コンサート 人間60年 ジュリー祭り」を開催し、東京ドーム、京セラドーム両日で5万4,000人を集めた。1000人のコーラス隊を従え、約6時間半でフルコーラス80曲を歌いきるというギネスレベルのステージを、加瀬邦彦、岸部一徳、森本太郎という盟友をはじめ、エディ藩、「いくつかの場面」を提供した河島英五の子息、サエキけんぞう、鮫島秀樹、白井良明、ミッキー吉野、八島順一、吉田建など、多くのミュージシャンが客席で見守った。観戦した湯浅学やスージー鈴木、安田謙一、町井ハジメら音楽評論家も絶賛。江國香織は「ジュリーの声は甘く透明なシロップの川」、佐野洋子は「感動した。そして素晴らしく幸せだった」、ねじめ正一は「ゲストもMCも一切なし。スポンサーもなし、メジャー資本もなし。ジュリー祭りはジュリーとお客のためだけのものだ」と記し、ミュージシャンとしての姿勢を評価した。このライブは、第21回ミュージック・ペンクラブ音楽賞のコンサート・パフォーマンス賞を受賞。

2010年、長年プロデューサーだった加瀬邦彦とともにザ・ワイルド・ワンズと組んで『ジュリー with ザ・ワイルドワンズ』というユニットを結成。シングル『渚でシャララ』、アルバム『JULIE with THE WILD ONES 』を発表し、全国ツァーを行った。第23回ミュージック・ペンクラブ音楽賞コンサートパフォーマンス賞「JULIE with THE WILD ONES LIVE “僕達ほとんどいいんじゃない”」 受賞。

2011年、長年交流を絶っていた元ザ・タイガースの瞳みのるが40年ぶりにステージに復帰し、岸部一徳、森本太郎らタイガースのメンバーと共に9月8日から全国33都市で38回の沢田研二コンサートに参加。ツァー最終日の2012年1月24日、会場となった日本武道館には岸部四郎も参加し、1971年1月24日「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」で解散した時のメンバーが再集結したメモリアルコンサートとなった。

2012年3月、東日本大震災が起こった3月11日に追悼の意味を込め、全曲震災をテーマにしたアルバム「3月8日の雲」を発表した。

本人いわく「太りやすい体質」。50歳を過ぎたあたりから体重を増加させ始め、一般人には「ジュリーが太った」「ショックすぎる」と揶揄されても、本人は「歌がすべて」と意に介していない。迫力のある豊かな声量と磨きのかかったステージングで、還暦を過ぎてからもコンサートでの動員数が増えている。

2013年1月6日の渋谷公会堂での正月コンサート初日に、「オリジナル・メンバー(岸部兄、森本、瞳、加橋かつみ、沢田)でザ・タイガースを再結成してコンサートを開催する」ことを自ら発表。12月に日本武道館や東京ドームなどでコンサートを開催する予定となっている。


功績

ザ・タイガースは日本で初めての長髪の男性アイドル。1967年当時、ザ・ビートルズを真似た長髪は、不良の偏見が根強くあり、タイガースの公演会場の入り口ではPTA、地婦連が立ち、中高生が入場を締め出され、人気のピーク時にも「ロッテ歌のアルバム」や「NHK紅白歌合戦」への出場が叶わなかった

1960年代、最大手の芸能事務所である渡辺プロダクションは、テレビと並行し、ショービジネスとして全国でのライブを基本にしていた。ザ・タイガースは、デビューの年の1967年9月から10月、西日本縦断公演として長崎・博多・広島・尾道・大阪と、トラックに楽器や機材を積んで各地をまわる。1967年 - 1971年の解散までの4年間で、コンサート230回、のべ200万人を動員した。これが日本における全国縦断ツアーの原型といわれ、沢田はソロ以降も全国ツアーを決行。「日本のショービジネスを変えた男」といわれるゆえんとなった 。

1968年8月12日にザ・タイガースが後楽園球場で開催した「真夏の夜の祭典」は、日本で初めてのスタジアムコンサート。なお、ソロとしてのスタジアムコンサートは田園コロシアム(ザ・タイガース、PYGとしても開催)、大阪球場、ナゴヤ球場、横浜スタジアム、東京ドーム、京セラドームで開催している。

1969年3月1日、アメリカの音楽雑誌の中でも歴史が長く、最も権威ある音楽雑誌のひとつ『ローリングストーン』 (Vol.28) の表紙に登場。日本版が刊行される前の同誌において、日本人が表紙を飾ったのは、これが最初で最後だった。

1971年1月24日のザ・タイガース「ビューティフル・コンサート」(解散コンサート)は、日本人として初の日本武道館単独公演。

沢田が率いたPYGからの延長である井上堯之バンドは、歌手がフルバンドの前で歌うのが常識であった日本のミュージックシーンにおいて、異例ともいえるバンドスタイルを定着させる先鋭ともなった。

1975年「巴里にひとり (MON AMOUR JE VIENS DU BOUT DU MONDE) 」のフランスでのヒット以降、1978年にかけてフランス、イギリス、ドイツ、ベルギー等でシングル盤を発売した。また、1974年ハワイ、1977年、1978年グアム、1979年シンガポール、1980年、1982年香港でコンサートを開催している。

1979年、PARCOのテレビCMで全裸で横たわり、上半身裸の新聞全面広告を掲載。PARCO各店には手で胸を隠した裸の沢田のポスターが貼られた。翌年1980年2月29日に同じシチュエーションで写真集「水の皮膚」を発売した。この写真集は男性歌手として初めてのオールヌード写真集である。

1985年に日米合作映画「Mishima: A Life In Four Chapters 」(日本未公開)で劇中劇「鏡子の家」に出演、カンヌ映画祭に緒形拳らと共に出席。同作品は最優秀芸術貢献賞を受賞。

2000年11月、雑誌『日経エンタテインメント!』「J-POP巨人列伝-20世紀を駆け抜けた10人」第2位 沢田研二(第1位美空ひばり)。





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