永遠の夢に向かってアレンタウン

 

アレンタウン

アレンタウン















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City of Allentown - PA - Official Site









































1982年の「ナイロン・カーテン」におさめられているビリージョエルの「アレンタウン」。アメリカには今に限らず、昔から負の一面があって、映画ではよく暗い田舎のアメリカが描かれてきました。その暗さが結構好きだったりするのですが、彼のこの歌にはその良さがあるような気がします。曇り空のアメリカ田舎町。アレンタウンはアメリカ、ニューヨークのマンハッタンから西へ140キロ、ペンシルバニア州の3番目の都市で、人口はおよそ10万人。歌詞に出てくるベツレヘムは東にある隣町です。ジャージーショアというのは、ニューヨークの南に200キロにも及ぶとにかく長い海岸のこと。ビーチは白砂で美しい。USO(USOとはThe United Service Organizationsの略で米軍サービス機関で 軍隊慰問活動を行なう民間の非営利組織)は軍のさまざまなサービスを担当する団体。この歌はそのUSO(The United Service Organizations)で出会った退役軍人の町で、炭坑が閉じ、すっかり変わってしまった町を描いている。炭坑の悲哀を感じたこの町も、戦前には同じようにシルクの工場で栄枯盛衰を味わっています。今はそれなりに娯楽施設もある普通の幸せな町のようです。歌の冒頭の音は、2003年まで営業をしていたベツレヘム製鉄所の鉄をプレスする音。このころの社会問題を歌ったビリージョエルの歌声は本当に素敵です。ナイロン・カーテン(The Nylon Curtain)は、ビリー・ジョエルが1982年に発表したアルバム。スタジオ・アルバムとしては8作目。全米アルバムチャートで7位を記録した。1982年4月15日、オートバイ事故で骨折して入院したビリーは、病室にあるナイロン製のカーテンを見て、本作のタイトルを決定した。第1弾シングル「プレッシャー」は全米20位に達した。第2弾シングル「アレンタウン」は、ペンシルベニア州の工業都市アレンタウンの衰退と貧困問題、そして、それでも同地で真面目に生きていく人々を歌った曲で、全米17位。第3弾シングル「グッドナイト・サイゴン〜英雄達の鎮魂歌」は、ベトナム戦争に駆り出された兵士の視点で歌われた反戦歌で、全米56位。ローリング・ストーン誌は、同曲を「ベトナム戦争に対する、ポップ・ミュージックによる究極の碑文として記憶されるだろう」と評した。ビリーの自信作の一つで、発表当時「僕にとっての『サージェント・ペパーズ』」とコメントしていた。


アレンタウン(Allentown)

アレンタウン(Allentown)はアメリカ合衆国ペンシルベニア州東部に位置する都市。同州リーハイ郡の郡庁所在地である。人口は118,032人(2010年国勢調査)で、フィラデルフィア、ピッツバーグに次ぐ州第3の都市である。市はリーハイ川に沿っており、隣接するベスレヘムとイーストン各市とともに、ペンシルベニア州東部とニュージャージー州西部におよぶリーハイ・バレーと呼ばれる都市圏を構成する。リーハイ・バレー全体での人口は821,173人(2010年国勢調査)を数える。フィラデルフィアの北60マイル (95 km)、ニューヨーク市の西90マイル (145 km)に位置する。人気の高いアミューズメントパーク「ドーニーパーク&ワイルドウォーター・キングダム」が近くにある。また4年制カレッジのシーダー・クレスト・カレッジとミュレンバーグ・カレッジが市内にある。


設立

今日のアレンタウン市となった地域が最初に開拓されたのは1735年であり、その後1762年にウィリアム・アレンによってノーザンプトン町として整理された。アレンは富裕な海運商であり、ペンシルベニア植民地の判事で元フィラデルフィア市長であった。町が造られた土地は、1735年にアレンがウィリアム・ペンの息子から購入した5,000エーカー (20 km2)の一部であった。アレンはノーザンプトン町がイーストンに替わってノーザンプトン郡の郡庁所在地となることを期待し、またリーハイ川に沿っておりフィラデルフィアに近いことから地域の商業中心にしたいと思った。アレンは息子のジェイムズに資産を譲り、1770年、ジェイムズは父親の狩猟用の小屋がある場所の近くにトラウト・ホールと呼ばれる夏の住み家を建てた。1811年3月18日、この町は正式にボロ(borough)になった。1812年3月6日、ノーザンプトン郡の西半分がリーハイ郡となり、ノーザンプトン町が郡庁所在地に選ばれた。1833年4月16日に町名を正式にアレンタウンに変えた。この名前は既に長い間そういう通称とはなっていた。1867年3月12日に市制を布いた。


自由の鐘

アレンタウンはアメリカ独立戦争の時に「自由の鐘」(当時はペンシルベニア植民地議会議事堂の鐘と呼ばれた)をイギリス軍の目からうまく隠しおおせた場所として歴史的な意義がある町である。1777年9月11日、ブランディワインの戦いでジョージ・ワシントン軍が敗北を喫し、革命政府の首都であったフィラデルフィア市は無防備な状態となったので、避けられないイギリス軍の攻撃に対する準備を行った。ペンシルベニア植民地最高執行委員会は、市内にある11の鐘を降ろして市内から運び出し、イギリス軍に取られないようにするよう命令を出した。この鐘には植民地議会議事堂、クライスト・チャーチ、セントピーターズ・チャーチなどの鐘が含まれていた。イギリス軍が鐘を捕獲すると溶解して大砲に鋳直す怖れがあった。これらの鐘は北のノーザンプトン町まで運ばれ、現在のアレンタウン市中心にあるオールド・シオン改革派教会の地下室に隠された。今日、教会地下室の聖体が自由の鐘の隠されていたまさにその場所を示している。それは自由の鐘の実物大公式レプリカであり、横腹には独立当時の13星国旗が巻かれている。


アメリカ産業革命の発祥の地

1830年代以前のアレンタウンは地域市場のみの小さな町だった。しかし、リーハイ運河が開通して町の商業と工業の能力を大きく高めた。このことで、大きな産業化の波が訪れ、国内でも最大の重工業と製造業の中心地の一つになった。アレンタウンは隣接するベスレヘムほど大きくはなかったが、地元の製鉄業で多くの雇用を生み出した。リーハイ・バレー鉄道などの鉄道が原材料と製品の輸送に重要となり、これも当時の大きな雇用元となった。この地域の急速な経済成長の期間は1873年恐慌と長期不況という2つのできごとで止まった。製鉄業と鉄道産業に加えて、ビールの醸造でも強い伝統があり、ホーラカー・ブリュワリー(1897年設立、1978年閉鎖)、ノイバイラー・ブリュワリー(1875年設立、1968年閉鎖)[4]などの幾つかの著名な醸造所があった。これらの醸造所はギネスに売却された。


20世紀初期から現在

20世紀初期の経済回復は絹など繊維産業でもたらされた。アデレード・シルク・ミルは当時の世界でも最大級のものだったが、1881年に開業した。1928年までにリーハイ・バレーには140の絹と繊維の工場があり、地域でも2番目の製造業になった。1930年代までに、合成繊維が絹に取って代わり、絹製造は世界的に減少した。アレンタウンで最後まで残っていたカトワール・シルク・ミルも1989年に閉鎖した。1905年、マック・トラックスがアレンタウンに移転してきて、重工業の中心的存在になった。今日のアレンタウン経済はペンシルベニア州の他の地域と同じくサービス産業が中心となっている。


地理

アレンタウンは北緯40度36分06秒 西経75度28分38秒に位置する。アメリカ合衆国統計局によると、総面積は46.5km2である。うち45.9km2が陸地で、残り0.6km2が水域である。


気候

アレンタウンの気候は蒸し暑い夏と温暖な春・秋、寒い冬に特徴付けられる、四季のはっきりした気候である。ケッペンの気候区分ではフィラデルフィアやニューヨークと同様温暖湿潤気候に属するが、内陸に入る分沿岸部よりも冬の寒さが若干厳しく、実際には亜寒帯湿潤気候に近い。天候は市の北にある標高1,000-1,600フィート(300-500m)のブルーマウンテンと、市の南縁にある標高500-1,000フィート(150-300m)のサウスマウンテンの影響を受ける。1月の平均気温は最低が-6.7℃、最高が1.7℃である。7月の平均気温は最低が17.8℃、最高が28.3℃である。観測史上最高気温は1966年に記録した40.6℃、観測史上最低気温は1912年に記録した-26.7℃であった。降雨は年間を通して平均的にあり、ひと月8-12日程度の降雨日がある。初秋と仲冬はやや乾燥する。降雪量は年によって差があり、あまり降らない年もあれば、何回も大量の吹雪が襲う年もある。1月・2月の降雪量は20cmを超える。年間降水量は約1,100mm、年間降雪量は約80cmである。


犯罪統計

2006年にFBIに報告されたアレンタウンの刑事犯罪には、約800件の凶悪犯罪と7,000件以上の窃盗犯罪がある。加重暴行という例外はあるものの、アレンタウンはあらゆる犯罪の分類において全米の平均値を上回っている。最も甚だしいのは放火事件数が全米平均の2倍近いことである。他に全米平均を上回っている犯罪は、強盗、殺人および強姦である。アレンタウンで報告された凶悪犯罪の総数は2003年の全米平均に近い(平均の1.01倍)。一人当たりの犯罪率を全米平均と比べると、強盗で1.54倍、殺人で1.47倍、強姦で1.32倍および加重暴行では0.57倍となっている。アレンタウンで報告された窃盗犯罪の総数は2003年の全米平均の1.21倍であった。一人当たりの犯罪率を全米平均と比べると、放火で1.71倍、住居侵入窃盗1,23倍、窃盗1.22倍および車窃盗1.08倍であった。


ギャングの存在

アレンタウンの犯罪統計は、ギャングが関わる犯罪とギャング間抗争の増加で高くなっている。アレンタウン地区は国内でも最も暴力的な単一ギャング組織と考えられているMS-13の幾つかの根城の1つである。他にも悪名高い暴力的ギャング組織であるブラッズも市内に存在する。この2つやクリップスを含むギャング組織はギャング・シグナルと呼ばれる落書きにも関与しており、典型的なものはあるブロックにギャングがいることを示し、時には近い将来に報復として行われる暴力沙汰や他の犯罪を予告していることもある。近年は違法な薬物取引や売春も増加傾向にある。


経済

アレンタウンの主要製造業が過去20年間に姿を消した一方で、町には幾つかの大規模世界的企業の本社が存在し続けている。例えば、アジェア・システムズ、エアー・プロダクツ&ケミカルズ、マック・トラックス、オリンパス・コーポレーションUSA、PPLなどである。アレンタウンで最大の雇用主はリーハイ・バレー病院&健康ネットワークであり、7,800人を雇用している。


大衆文化の中のアレンタウン

アレンタウンはその無骨なブルーカラーの町という国民的評価によって、大衆文化の中で何度も引き合いに出されている。ビリー・ジョエルの歌『アレンタウン』の舞台となったことで世界的に知られている。この歌は当初、1982年のアルバム『ナイロン・カーテン』に収録された。この東海岸の工業都市に特徴的である荒々しく鍛えられた生活の中でアレンタウン住人の決意を歌った。この歌には当時衰退していた(現在は無くなっている)ベスレヘム・スチールのある隣のベスレヘム市に関することも含まれている。アレンタウンは、有名なブロードウェイミュージカル『42番街』で、前途有望なショーガール、ペギー・ソーヤーの出身地として描かれている。試験公演前に踝を痛めたショーのスターの代役をソーヤーが求められたとき、ディレクターのジュリアン・マーシュに彼女はアレンタウンに戻る方がいいと告げる。マーシュはソーヤーをミュージカルにつなぎ止めようと努める時に、おそらくブロードウェイの歴史の中で最も有名な歌詞を歌って聞かせる。「こっちに来てブロードウェイの子守歌をお聴きなさい」このことでソーヤーは留まる決心をする。ミュージカルの開演の夜、幕が開く直前に、架空のアレンタウン生まれを有名にし、今やしばしば繰り返されるブロードウェイにまつわる台詞の一節をマーシュが告げる。「あなたは子供時分をあちらで(地味に)過ごしてきたけれど、今やスターにならなければなりません」。ソーヤーは驚くべき大当りをとり、彼女を主役とするマーシュのミュージカルは大成功を収める。アレンタウンにあるドーニー・パークはジョン・ウォーターズの1988年の映画『ヘアスプレー』や1968年の映画『天使の行くところ、トラブルが付いてくる』のロケが行われた所である。2006年、パワー・ポップ・グループのオールアメリカン・リジェクツはその歌『汚れた小さな秘密』の音楽ビデオの撮影で、ドーニー・パークや他のアレンタウン地域の場所でロケした。アレンタウンはアービング・ゴードンの歌『アレンタウン監獄』の主題であり、この歌はザ・キングストントリオ、ザ・レターメン、ザ・シーカーズおよびジョー・スタッフォードなど何組かの歌手によって録音されている。アレンタウンはCBSで1955年から1959年まで放映された喜劇シリーズ『ザ・フィル・シルバーズ・ショー』の配役ドーベルマンの故郷であった。















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