永遠の夢に向かって会社が消えた日

 

会社が消えた日

会社が消えた日















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三洋電機株式会社




































































会社が消えた日 三洋電機10万人のそれから

新潟中越地震での工場被災をきっかけに経営危機が表面化、2006年に米ゴールドマン・サックス、大和証券SMBC、三井住友銀行の金融3社から3000億円の出資を受けた三洋電機。その後、携帯電話、デジカメ、テレビ、音響、白物家電、半導体、信販といった事業は切り売りされ、本体はパナソニックに買収された。散り散りになった旧経営陣は今何を思い、10万人の社員たちは今どこで何をしているのか。経営危機の渦中、同族企業の混乱を克明に取材し、その後も電機業界の動向を見続けてきた新聞記者が、多くのビジネスパーソンにとって決して他人事ではない「会社が消える日」を描く。たとえ今の職場がなくなっても、人生が終わるわけではない。では、どこに向かって次の一歩を踏み出すか。かつて三洋電機に在籍した人々のその後の歩みは、貴重な示唆に富んでいる。重苦しいテーマを扱いながら、本書が「希望の物語」となっているのは、そこに会社を失ったビジネスパーソンの明るくたくましい生き様が垣間見えるからだ。


転職の時期を読み切れ 元三洋電機社員サバイバル

パナソニックに買収され2011年に上場廃止になった三洋電機。かつて10万人いた社員のうち、いまもパナソニックグループに残るのは約9000人で、9万1000人が会社を去った。ある者は自らの意思で新たな道を選び、ある者は部門ごと他社に売却され、またある者は行くあてもないまま社外に放り出された。しかし、いずれの形にせよ、彼らはいま新天地でしぶとく、したたかに生きている。何十年も勤めた会社を去り、新たな人生を踏み出す時、彼らは何を考え、どう動いたか。元三洋電機社員たちが大淘汰時代のサバイバル術を語る。迷えるサラリーマンの問い。今の会社にはいたくないが、行く当てもない。どのタイミングで辞めるべきか?


働くモチベーションがなくなったら辞めなさい

家電や健康関連機器の卸売り、電気のトラブル駆け付け代行サービスを提供するシリウス(東京・台東)社長の亀井隆平が三洋電機を辞めたのは、パナソニックによる三洋電機の完全子会社化および「サンヨー」ブランドの廃止が決まった2010年4月、45歳のときだった。亀井はその理由をこう説明する。「自分が尊敬しているのは三洋電機の創業者、井植歳男(いうえ としお 1902年12月28日 - 1969年7月16日)であって、松下幸之助(まつした こうのすけ 1894年11月27日 - 1989年4月27日)ではありません。庶民にやさしい三洋電機、地球にやさしい三洋電機のために働いてきました。だからパナソニックのために働く気にはなれませんでした」北海道函館市出身の亀井は1987年3月に国士舘大学体育学部を卒業したあと衆議院議員、浜田幸一の秘書を務めた。柔道六段の猛者である。浜田の事務所を辞めた後、拾われるような形で89年9月、三洋電機に入社した。亀井はそのことを今でも恩義に感じており、三洋電機に対する愛社精神が人一倍強い。冷熱事業部サービス部や販売子会社の三洋ライフエレクトロニクス株式会社、三洋電機空調株式会社、マーケティング本部、国内営業本部を経て2008年、経営企画本部の特命担当に就任した。特命とは政治家や官僚を相手にしたロビーイングのことである。当時、三洋電機再建のために会長に就任し「シンク・ガイア」を掲げた野中ともよの右腕として、亀井は三洋電機再建のために政界、官界を奔走した。しかし結局、三洋電機の自力再生はかなわず、パナソニックに買収された。パナソニックの子会社になった後は、三洋電機の社員も毎朝、パナソニックの社歌を歌うことが求められたが、三洋電機への執着が強い亀井は「どうしても歌えなかった」という。「サンヨーブランド」の廃止が決まった時点で退社を決めた。


次の勤め先が見つかるまで、辞めてはいけない

2000年から2005年まで三洋電機の人事部長を務めた岡本浩之は、いまも多くの三洋電機社員から転職の相談を受けている。そのとき、まず岡本がするアドバイスは「早まるな」である。亀井のケースとは相反するが、人事のプロだった岡本は「順応することも大切だ」という。パナソニックに買収されたことで元三洋電機社員の働き方はガラリと変わった。会議の進め方から伝票の起こし方まで、様々なことが変わり、元三洋電機社員の多くは強いストレスを感じた。それまで三洋電機の人間が占めていた主要ポストにパナソニック出身者が就くようになり、出世の道が閉ざされたと感じた社員も多い。しかし岡本はこう言う。「いきなり辞めても、次の職場で前よりいい処遇が得られる可能性は少ない。一番いいのは今の職場で必要とされる人材になること。それがだめなら、可能な限り今の会社にしがみついて、その間に納得して働ける新しい職場を探すべきです。感情に任せて会社を辞め、人生設計が狂った人を私は多く見てきました」岡本自身が会社を辞めたのは2012年3月のことだ。江崎グリコから広報部長のオファーがあった。それ以前にも岡本には多くの企業から「人事部長をやってほしい」という誘いがあった。三洋電機時代の「人員削減」の腕前を見込まれてのことだ。しかし二度と「首切り」の仕事をしたくなかった岡本は高額報酬の申し出を断った。広報の仕事は三洋電機時代にもやったことがあり、同じ大阪の会社であることも転職の決め手になった。江崎グリコはいま、アジアを中心に海外進出を加速しようとしている。世界の人々にグリコの良さをどう理解してもらうか。「忙しいが、やりがいのある仕事です」と岡本は言う。亀井と岡本の話を総合すると「気持ちと環境の両方が整った時が辞め時」ということになる。「売り言葉に買い言葉」のような形で、環境が整う前に辞めてしまうと、人生設計が狂い、立て直しに苦労する。とくに扶養家族やローンを抱える中高年は慎重に事を運ぶ必要がある。しかし生活のためだけに、モチベーションが湧かない会社で働き続けるのも、正しい選択とは言えない。今の会社でモチベーションが湧くように自ら努力することも大切だが、亀井のように「もうここでは働けない」と感じたら、そこで踏ん切りをつける勇気も必要だ。何十年も同じ会社でサラリーマンをやってきた自分に起業ができるか。転職先で能力を発揮できるか


経験のない仕事を恐れるな。やればできる

三洋電機を辞めた亀井は誘われて、風力発電のベンチャー企業の専務になったが、この会社の経営そのものがうまく行かず、1年で退社した。そのあと亀井が転がり込んだのは、妻の理(さとり)が起業した会社だった。理は亀井と大学の同窓で柔道二段。中学の保健体育教諭をしていたが、数年前に一念発起して除菌水を販売する会社を作った。亀井はその会社の社長になり家電製品や健康関連機器の卸売りを始めた。果たして亀井に社長業は務まったのか。シリウス(東京都台東区)の亀井隆平社長。三洋電機時代は渉外担当だったが、いまは財務も営業も1人でこなす。「三洋電機では営業・渉外でしたから。経理なんか全然わかりません。確定申告をするのも一苦労でした。でも、できるもんですね。会社にいたときは、私は経理屋です、私は技術屋です、とみんな自分の仕事に閉じこもっていたが、やってみればたいていの仕事はできますよ。組織の中で押さえつけられているだけです」、「例えばこのポップアップも私が作りました。デザインも全部自分でやります。三洋電機時代は、こんなもの一つ作るのにあーでもない、こーでもないと会議ばっかりやって半年もかけていました。自分でやれば一週間で作れます」、元人事部長の岡本は転職の意志が固い元三洋電機社員に対しては「必ず転職先が見つかるから自信を持て」と励ます。売上高2兆円のグローバル企業の職務履歴は伊達ではない。岡本自身がそうであったように、彼らの力を必要とする企業は数多くある。グリコに入った三洋電機社員は岡本を含め7人。ダイキン工業、ダイドードリンコ、タイガー魔法瓶、象印マホービン、サンデン、ソフトバンク、リクシル。元三洋電機社員の転職先はバリエーションに富んでいる。元三洋電機の人々は、彼らを必要とする会社に流れ、再び力を発揮している。だが岡本は最後にこう付け加えた。「あっちで活躍している、こっちで重宝がられている、という話は、うまくいっているから聞こえてくるんです。実際には、会社から放り出されたあと、つらい人生を生きている人も多いはずです。そういう人の話は聞こえてこない。彼らが何も言わないからです。だから、『会社がなくなってよかった』なんて、僕は口が裂けても言えません」


三洋電機

三洋電機株式会社(SANYO Electric Co., Ltd.)は、パナソニックグループの日本の電機メーカーにしてパナソニックの機能子会社。本社は大阪府大阪市中央区、登記上の本店は大阪府大東市に所在。かつては、大阪府守口市に創業から60年以上にわたって本社を置いていた。松下幸之助の義弟で松下電器産業(現・パナソニック)の創業にもかかわり、同社の専務取締役だった井植歳男が、GHQによる公職追放指定に伴い、1946年(昭和21年)に松下電器を退社。翌年2月1日、松下幸之助より、自転車用発電ランプの製造権と加西市にある松下電工北条工場(現在の「イオンモール加西北条」敷地)を譲り受け、個人事業「三洋電機製作所」を創業し、自転車用ランプを製造。当初は松下電器が三洋電機の名前を併記して「ナショナル」ブランドで販売していた。のちに直販化した。松下電器産業の後藤清一 も創業時に工場長として参加(後に副社長)。なお、2009年(平成21年)6月30日まで存在したサンヨーミュージアムに「ナショナル発電ランプ:三洋電機株式会社製造」などという旨が書かれた当時の広告、ブランドロゴが展示されていた。1949年(昭和24年)、三洋電機株式会社設立。会社のマークに、源流企業の松下電器の「ナショナルマーク」類似の、円形に電気のスパークとサンヨーロゴをデザインしたものを採用。社名は太平洋・大西洋・インド洋を意味し、世界で活躍できる企業になるという意志が込められている。1953年(昭和28年)に開発した噴流式洗濯機が大ヒットし、一躍有名になった。2011年(平成23年)に株式交換によりパナソニックの完全子会社となった。















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