永遠の夢に向かってツェッペリン

 

ツェッペリン

ツェッペリン
















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ドイツ・ツェッペリン博物館









































































ツェッペリン(Zeppelin)

ツェッペリン(独: Zeppelin)とは、20世紀初頭、フェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵(通称Z伯)が開発した硬式飛行船の一種を指す。ツェッペリンの設計した船体は非常に成功し、その結果「ツェッペリン」という語は慣用的にあらゆる硬式飛行船のことを指すようになった。硬式飛行船は外殻の支持構造をもつ飛行船であり、ガス圧で外形を維持する軟式飛行船と区別される。ツェッペリン飛行船は、アルミニウムなどの軽金属の外皮を被せた枠組構造内に、空気より軽い水素ガスを詰めた複数の気嚢を収容している。乗客や乗員の乗る居住空間(ゴンドラ)が枠組構造の底部に取り付けられている。動力源は数基のレシプロエンジンである。硬式飛行船の設計が優れている点は、浮揚用水素ガス袋と、船体構造とを分離した点にある。従来の軟式飛行船は、ガス袋そのものを船体としていたため、変形しやすくなり、高速飛行は不可能であった。硬式飛行船はアルミニウム合金の多角形横材と縦通材で骨格をつくり、張線で補強し、その上へ羽布(麻または綿布)を張って流線形の船体を構成し、ガス袋を横材間に収めた。このような構造をもつ硬式飛行船は、船体の外形を保持することができ、飛行機よりは遅いものの、駆逐艦には追尾できない高速を発揮した。飛行船は実用的な空の輸送手段となった。硬式飛行船の優れたもう一点は、大型化を可能にしたことである。飛行機と違って、ツェッペリン飛行船の浮力は寸法の3乗である体積に比例し、また、構造重量は寸法の3乗以下にとどめることができるので、大型であるほど搭載貨物を増大できる。


ツェッペリン社の歴史

硬式飛行船の第1号は1900年のLZ1で、1909年にはツェッペリン伯爵は飛行船製造事業とともに、DELAGという世界初の旅客を運ぶ商業航空会社を創立した。両方の会社とも本拠地はドイツ南部にあるボーデン湖畔のフリードリヒスハーフェンにあった。後に、ツェッペリン伯爵はツェッペリン社の代表をフーゴー・エッケナーと交代した。エッケナーは宣伝の名人であるとともに極めて技量の優れた航空機の機長だった。ツェッペリン社がその絶頂期に達したのはエッケナーの功績によるところが大きい。1928年、ツェッペリン社は技術の総力を結集し、巨大な飛行船を製作する。グラーフ ツェッペリン号である。この最新鋭のツェッペリン飛行船は、全長235m、航続距離1万kmという超弩級の飛行船であった。同社は1930年代までは順調に経営され、ドイツからアメリカ合衆国や南米に至る長距離航空路線を維持した。しかし、大恐慌とナチス党の台頭が会社に災いした。特に、エッケナーとナチスとは犬猿の仲であった。そのため、ツェッペリン社はドイツ政府により1930年代なかばに国有化された。また、従来の水素ガスの替わりに、爆発の危険がなく安全なヘリウムガスを使用する予定だった新造船ヒンデンブルク号は、独米関係の悪化によって、当時唯一のヘリウムガス生産国であったアメリカからの(アメリカは飛行船の軍事転用を恐れていた)供給が滞り、水素ガスを使用しなければならなかった。1937年5月6日、同社の旗艦であるヒンデンブルク号は、アメリカのレイクハースト飛行場に着陸作業中、火災を起こし墜落、多数の犠牲者を出した。これにより、ツェッペリン飛行船の定期旅客航路の運航は中止され、ツェッペリン社は惨事の数年後には事実上活動を停止した。事故当時は水素ガスの使用がこの事故の原因とされたが、現在ではこの説は否定されている。しかし、約20年間の航空会社の私企業としての運営の間、少なくとも幾分かは利益を生み、ヒンデンブルク号の事故が起こる前までは完全な安全記録を保持していた。なお、第一次世界大戦においては、ツェッペリン飛行船は119隻建造されて、偵察目的のほか、英国に対する長距離爆撃にも使用された。しかし、戦術的に有効な打撃を与えることはなく、主に空を舞う威圧的な飛行船を見せて敵国の市民の戦意を削ぐ心理的な効果を狙ったものであった。また、飛行船は低速で大きく、極めて燃えやすい水素浮揚ガスを使用していたため、イギリス軍が対空防御体勢を固めると、対空砲や戦闘機からの銃撃の容易な的となり撃墜されることも多く、またそれ以上の数の飛行船が往復途中の悪天候で遭難した。ツェッペリン飛行船のような硬式飛行船は、たとえそれがツェッペリン社と縁が無くともしばしばツェッペリンと呼ばれた。この種の飛行船はアメリカ、イギリス、イタリアおよびソ連で1920年代から1930年代にかけて製造された。致死墜落事故が相次いだため製造は中止された。また、サービスでは船に劣り、速度では飛行機に劣る上、運賃は豪華客船並みという飛行船が旅客事業で生き残る事も難しかった。


ドイツの硬式飛行船・LZ129 ヒンデンブルク号

LZ 129(独: Deutsche Luftschiff Zeppelin #129、登録符号: D-LZ 129)「ヒンデンブルク」はドイツの旅客輸送用巨大硬式飛行船。今までに作られたあらゆる飛行機械の中で最も巨大なヒンデンブルク級飛行船の1番船である。2番船にグラーフ・ツェッペリン二世がある。ヒンデンブルクという名は、1925年から1934年までドイツ大統領だったパウル・フォン・ヒンデンブルク(1847年-1934年)の名をとったものである。1936年3月に運航を開始し、第2シーズンの最初の北アメリカ行き大西洋横断飛行の最後に爆発火災で破壊されるまで、14ヶ月間運航した。爆発事故は1937年5月6日、ニュージャージー州マンチェスター・タウンシップにあるレイクハースト海軍航空基地に着陸時に発生し、36名が死亡した。この出来事は、映画、写真、ラジオなどの各メディアで広く報道された。


設計と開発

ヒンデンブルクの構造材はジュラルミン製で、全長に沿って15枚の大観覧車のような隔壁が取りつけられていた。そしてそれにはさまれて16個の木綿製のガス嚢が置かれた。各隔壁はその外周に置かれる縦の桁によって強化されていた。飛行船の外皮は、紫外線から気嚢を保護するためと、オーバーヒートの原因となる赤外線から守るためにドープを塗った木綿でできていた。しかし、使われた薬品はアルミニウムと酸化鉄の混合で、激しく熱せられるといわゆる「テルミット反応」を起こすものであった。ヒンデンブルクの内装は、プルマンコーチや外洋客船、ドイツ海軍の軍艦などの経験を持つフリッツ・アウグスト・ブロイハウス教授によってデザインされた。上層のAデッキは、中央に旅客用の小さな区画と大きなパブリックラウンジが並び、ラウンジとダイニングルームが左舷に、ライティングルームが右舷に配置されていた。ダイニングルームの壁にはグラーフ・ツェッペリンの南アメリカへの飛行の絵が描かれていた。ラウンジの壁は枠つきの世界地図に覆われていた。両デッキには、全長にわたって傾斜した長い窓が設けられていた。乗客は、窮屈なキャビンよりむしろこのラウンジで大半の時間を過ごすよう考えられていた。ヒンデンブルクの乗客は、これが史上もっとも贅沢な航空機であるということを疑わなかった。そして、ただの一人も飛行機酔いにかからなかった。下層のBデッキには洗面所、乗員用食堂と喫煙ラウンジがあった。グッドイヤー・ツェッペリン社のアメリカ側代表者であるハロルド・G・ディックは次のように回想している。『漏れた水素が一切侵入しないように加圧された喫煙室への唯一の入り口は、回転するエアロックドアを持つバーの向こう側にあった。出ようとする乗客は、火の付いたタバコやパイプを持ち出さないかどうか、バーのスチュワードによってとことん調べ上げられた。』


水素の使用

浮揚ガスとしては、飛行船には最も安全であるとして不活性のヘリウムが選ばれたが、当時それはあまりにも高価であり、アメリカ合衆国の天然ガス備蓄から供給されていた。それに比べて水素は、誰にでも安価に生産でき、また水素とヘリウムの比重差から、浮揚できる重量や上昇高度もヘリウムに比べて多大であった。ヘリウムを使用するアメリカの硬式飛行船はガスの徹底的な節約を強いられ、それが活動を妨げていた。水素で浮揚する飛行船は必要なときにはガスを排出することができたが、高価なヘリウムで浮揚する飛行船は、軽すぎて降下できないときにはガスを排出できず、構造に無理がかかっても力学的な方策を採らねばならなかった。アメリカ合衆国は最初ドイツにヘリウムを売りこもうとしたが、すぐにドイツに対する軍需物資の禁輸が行われたために、ヒンデンブルクは水素を使用するように変更を強いられた。可燃性の水素を使うことの危険性は明らかだったが、十分な浮揚力を提供する十分な量が用意できるガスは他には存在しなかった。水素を使用することの効果の一つは客室を追加できると言うことだった。水素による旅客飛行船を一人の死傷者も無く運用した長い歴史を持つドイツは、水素の安全な使用に熟達しているという大きな確信を持っていた。水素とともに飛ぶということは、今日では信じられないほど危険な行為だが、当時は全く合理的であると考えられたのである。ヒンデンブルクの最初のシーズンは、これを証明したかのようであった。


運航歴

1931年以降5年にわたる断続的な工事の末、ヒンデンブルクは1936年前半についに完成し、3月の最初の3週間に6回の慣熟飛行を行った。ヒンデンブルクはツェッペリン飛行船会社、ドイツ航空省とルフトハンザドイツ航空 (Deutsche Lufthansa AG) が1935年3月に合弁で設立しドイツ・ツェッペリン運航会社 (Deutsche Zeppelin-Reederei GmbH) によって商業運航を行った(この会社は、1935年から1937年まで、グラーフ・ツェッペリン号の最後の2年間の南アメリカへの商業運航も行った)。ヒンデンブルクは大西洋横断の定期旅客輸送を行うために作られた2隻の飛行船の1隻目であったが、実際に商業運航に従事したのは本船のみだった。


ヒンデンブルク号爆発事故

ヒンデンブルク号爆発事故(Hindenburg Disaster)とは、1937年5月6日にアメリカ合衆国ニュージャージー州レイクハースト海軍飛行場で発生したドイツの硬式飛行船・LZ129 ヒンデンブルク号の爆発・炎上事故を指す。乗員・乗客35人と地上の作業員1名が死亡。この事故により、大型硬式飛行船の安全性に疑問が持たれ、それらの建造が行われなくなった。1912年4月14日に起きたイギリスの豪華客船タイタニック号沈没事故、1986年1月28日に起きたアメリカのスペースシャトル・チャレンジャー号爆発事故などとともに、20世紀の世界を揺るがせた大事故のひとつである。


硬式飛行船の黄金期

硬式飛行船の第1号は1900年のLZ1で、1909年にはツェッペリン飛行船による航空輸送会社も設立された。硬式飛行船の設計が優れている点は、浮揚用水素ガス袋と、船体構造とを分離した点にある。従来の軟式飛行船は、ガス袋そのものを船体としていたため、変形しやすくなり、高速飛行は不可能であった。硬式飛行船はアルミニウム合金の多角形横材と縦通材で骨格をつくり、張線で補強し、その上へ羽布(麻または綿布)を張って流線形の船体を構成し、ガス袋を横材間に収めた。このような構造をもつ硬式飛行船は、船体の外形を保持することができ、飛行機よりは遅いものの、駆逐艦には追尾できない高速(特急列車と同程度)を発揮した。飛行船は実用的な空の輸送手段となった。硬式飛行船の優れたもう一点は、大型化を可能にしたことである。飛行機と違って、ツェッペリン飛行船の浮力は寸法の3乗である体積に比例し、また、構造重量は寸法の3乗以下にとどめることができるので、大型であるほど搭載貨物を増大できる。第一次世界大戦中には119隻建造されて、偵察や爆撃などに用いられたが、空爆による軍需工場破壊や国家そのものに与えるダメージだけでなく、空を舞う威圧的な飛行船を見せて敵国の市民の戦意をそぐことも視野に入れられていた。ただし、軍事行動中に撃墜されたものもあり、またそれ以上の数の飛行船が悪天候で遭難した。また、複葉機の台頭に伴い、次第に戦果が挙げられなくなる。第一次世界大戦後の1928年には、ツェッペリン飛行船会社は、LZ127グラーフ・ツェッペリン(ツェッペリン伯)号を建造して、世界一周に成功。このときは日本(茨城県霞ヶ浦)を含めた世界各地に寄港し、各地を熱狂させた。


爆発事故

しかし、そうした硬式飛行船の黄金期は突如として幕を閉じる。LZ129ヒンデンブルク号は、マックス・ブルス船長の指揮のもと、ドイツ・フランクフルトを発ち(現地時間5月3日20時20分、アメリカ東部時間5月3日14時20分、日本時間5月4日4時20分)、2日半の大西洋横断後、現地時間(アメリカ東部時間)1937年5月6日19時25分(日本時間5月7日8時25分、ベルリン・フランクフルト時間5月7日1時25分)頃、アメリカニューヨーク近郊のニュージャージー州レイクハースト空軍基地着陸の際に尾翼付近から突如爆発。ヒンデンブルク号は炎上しながら墜落し、乗員・乗客97人中35人と地上の作業員1名が死亡した。このときの様子は写真・映像及びラジオ中継により記録[1]され、現在も事故直後の様子を知ることができる。また、映像技術の発展に伴い、モノクロ映像だったヒンデンブルク号の映像を処理してカラー化されたものも出ている。


事故原因

事故発生当時は水素ガス引火による爆発事故ということで、浮揚ガスに水素ガスを用いるのは危険だとする説が流布された[2]。ツェッペリン社は原因については一切公表しなかったが、濡らした外皮に電流を流して発火させる実験を行い、外皮が事故の原因であるとの結論に達していた。この事実をツェッペリン社が公表しなかったのは、保険金の問題もしくは国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)の圧力が原因であると考えられている。その後、ツェッペリン社は外皮塗料を改良した新型機を製造したが、アドルフ・ヒトラーの指示により解体された。その後、1997年にNASA・ケネディ宇宙センターの元水素計画マネジャー、アディソン・ベインが当時の証言、映像分析、そして実物の外皮[3]の分析により、事故の原因はヒンデンブルク号の船体外皮の酸化鉄・アルミニウム混合塗料(テルミットと同じ成分である)であると発表した。彼の説は、ヒンデンブルク号の飛行中に蓄積された静電気が、着陸の際に着陸用ロープが下ろされた瞬間に、外皮と鉄骨の間の繋ぎ方に問題があったために十分に電気が逃げず、電位差が生じて右舷側[4]尾翼の前方付け根付近で放電が起こったことから外皮が発火・炎上した、というもので、現在ではこの説が有力になりつつある(この場合、浮揚ガスが水素でなくヘリウムの場合でも飛行船の外皮は炎上する。ただし、水素と違ってヘリウムは爆発しないので被害は少なくなる)。以上の説は、1999年にイギリスのトゥエンティ・トゥエンティ制作のテレビ番組 "Secrets of the Dead, What Happened to the Hindenburg?" でベイン自身の解説とともに取り上げられ、日本でも翌2000年6月16日にNHK総合で「ドキュメント 地球時間 ヒンデンブルク号 豪華飛行船の悲劇」として放送された。また、ドイツ政府の工作員による自爆テロだったのではないかという陰謀説もある。当時、「飛行機の実用化を進めていたドイツにとって、『飛行船はもはや時代遅れ』という見方が強まっており、大衆の目前で飛行船の危険性を印象づけることで航空機への転用を図ろうとした」という理由であるが、この説には証拠となる証言や物的証拠は一切存在せず、ツェッペリン飛行船製造会社と当時ドイツの政権政党であったNSDAPは仲が悪かったという状況証拠のみを根拠としている。また、ヒンデンブルク号はドイツの威信を象徴する乗り物であり、さらに外遊先の敵国アメリカで、大事故を起こし全世界に醜態をさらすことなど、国家の体面を非常に気にしていたヒトラーやドイツのナチス党政権が許すはずもないため、NSDAPを嫌うツェッペリン社社長エッケナー博士の破壊工作と言う説もある。


事故後の影響

ヒンデンブルク号爆発事故後、飛行船の安全性に対する信頼は打ち砕かれ、水素で満ちた飛行船で乗客を運ぶことが許容されなくなってしまった。例えば、世界一周の偉業を遂げたLZ 127は事故の1ヶ月後にその役目を終え、博物館に収蔵されることになった。また、ドイツ国内のほかの飛行船も第二次世界大戦の勃発と共にその生涯の幕を下ろす。1940年3月、ドイツ空軍元帥であったヘルマン・ゲーリングは、残るすべての飛行船の破壊を命じ、アルミニウム製の部品をドイツ戦争産業省へと供給した。一方、アメリカ海軍はドイツ海軍の方針を引き継いでツェッペリン型飛行船を採用したが、採用について、浮揚ガスにはヘリウムガスを使用した。しかし、アクロン号を始めとして、ほとんどが荒天で難破した。1975年、ユニバーサル映画がこの史実を、人為爆破説に基づき映画化した。ロバート・ワイズ監督、ジョージ・C・スコット主演でタイトルはそのまま「ヒンデンブルク」(The Hindenburg)。飛行船内部の詳細な再現に加え、爆発後のシーンに、実際のニュースフィルムが用いられたことも話題となった。ヒンデンブルク号にはアルミ合金ジュラルミンが使用され、軽く頑丈に作られていた。
















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