不良少年

不良少年















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本田技研工業株式会社




































白いツナギを着た若い電気工に憧れた

本田宗一郎のことを聞かれると、私は「一言で言うと、『偉大なる不良少年』」と答えることにしている。もちろん「不良」が必ずしも「悪」という意味ではない。不良とは素行が悪いという意味である。例えば小学校のころ、通信簿に父兄が印をついて先生に返すことになっていたが、本田宗一郎少年は、イモを2つに切って自ら小刀で本田という字を彫って親の代わりに印を押したそうだ。この話をするときの本田宗一郎の顔は、まるでいたずら坊主のような可愛い笑顔だった。「友だちに池田というヤツがいてね。印を作って、押してみたら字が左右反対になっちゃってさ(笑)。田中、本田は左右同じだからそのままでいいんだけどね」と本田宗一郎。ゲタゲタゲタと大笑いした。昔、全国のどこの街に行っても何人かの不良少年がいた。彼らは決して頭が悪いわけではない。勉強が嫌いで遊びが大好きという意味である。本田宗一郎が生まれたのは浜松市の近く天竜川(てんりゅうがわ)のほとりにある天竜市(てんりゅうし・現在は浜松市に吸収合併)だった。バッタを捕まえカエルを解剖した。好奇心の強い子どもだった。父親は鍛冶屋。真っ赤に焼けた鉄を大きな槌でトンテンカンと叩いて形を整えていく。本田宗一郎はそのそばで針金やブリキ板を使って模型の軍艦や戦車を作ったりして遊んでいた。 細工をするのが好きだった。村に電気が初めてついたころ、白いツナギを着た若い電気工に憧れた。腰に金槌やドライバーを吊るしている姿が本田宗一郎にとって格好がよかった。


「自動車修理工を求む(アート商会)」

村に自動車が来ると後から追いかけ、車が止まると下からもぐりこんで、オイルやガソリンの匂いに酔ったという。尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)を終え、2年制の高等小学校(現在の中学校か)に進んだころ、本田宗一郎は車雑誌で、「自動車修理工を求む(アート商会)」という広告を見て、弟子入りをしたいと手紙を書き、反対する母親を説得して東京に出た。16歳の春である。行ったはいいが、くる日もくる日もご主人の赤ん坊の世話ばかり。オンブして小便を背中にかけられた。「うれしかったのは、おい小僧と社長に言われ、今日は忙しいから少し手伝えと言われて車の下にもぐりこんだこと」という。切れたワイヤーの修理だったが、本田宗一郎は寒さも忘れ、車の下にゴザを敷いて、修理に没頭した。


東京に関東大地震が起こった

大正12年、東京に関東大地震が起こった。火災から逃れるために主人は「みな、車を運転して安全なところへ運べ」と命令した。本田宗一郎は内心「しめた」と思った。生まれて初めての運転だった。こうして6年間働いて一人前の修理工になった本田宗一郎は、主人にのれん分けをしてもらい、アート商会浜松支店という店を出す。本田宗一郎はオートバイに乗って浜松入りした。かつての不良の憧れの姿である。白く長いマフラーを首になびかせ本田宗一郎は胸を張って浜松に戻った。


「学歴はいらないが、学問は必要だ」

私が初めて本田宗一郎に会ったのは、ホンダがすでにオートバイで成功し、日本一のオートバイメーカーになったころである。彼は本社のある東京・八重洲口のビルには全く行かず、埼玉県和光市に作った本田技術研究所で毎日を過ごしていた。財務や販売については副社長の藤沢武夫に一切をまかせっきり。自分はオートバイづくりに専念していた。ここで生まれたのがベストセラーになった2サイクルのドリーム号であり4サイクルのドリームE型である。とにかく本田宗一郎は工場に立てこもって物づくりに専念した。銀行相手の仕事や完成した車を売る仕事は、みな副社長の藤沢武夫にまかせた。本田宗一郎は研究所で毎晩、徹夜続きである。コンビ経営の成功と言っていい。本田宗一郎はアート商会浜松支店で修理工場をやる一方、ピストンリングを開発して、資金づくりに成功しているが、この頃、彼は仕事の合間に浜松工業専門学校に聴講生として入学した。「学歴はいらないが、学問は必要だ」という考えである。いかにも技術家・本田宗一郎らしい実感である。


水冷エンジンを主張する本田宗一郎

彼にとっていい話がある。彼が昭和48年(1973年)、副社長の藤沢武夫と共に社長、副社長を退き、愛弟子とも言える若い河島喜好(かわしま きよし)に社長の座を譲るが、この時の引退の理由が泣かせるのだ。引退の2、3年前、社内で本田宗一郎社長と河島喜好専務との間で大変な技術論争が行った。のちの四輪車、CVCCエンジンについての論争である。水冷エンジンを主張する本田宗一郎に対し河島喜好ら若い技術陣は「排ガス規制を乗り切るには空冷以外になし」と対立したのである。あわや掴みあいになるのでは・・・までいった論争で河島喜好は一人でストを決行。1カ月間出勤しなかった。そこまで激論は行きついてしまったのだ。最後に譲ったのは本田宗一郎だった。「そうか。お前たちが勝ちか」とつぶやく本田宗一郎。このとき、本田宗一郎は社長を辞めることを決心し、実際に2年後、社長を辞めた。自分の技術が陳腐化していたことを悟った当時の本田宗一郎の心境を想像するに、思わず涙するような思いである。

















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