館林市

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分福茶釜(ぶんぶくちゃがま、ぶんぷくちゃがま)

民俗学者の柳田國男(やなぎた・くにお)によると、基話の狐(キツネ)の恩返しを基(もと)にすれば、動物と人間との交渉を物語る昔話の根幹には〈動物援助〉の考えがあり、選ばれた人間に神の使いである鳥獣(ちょうじゅう)が富を与えるのだという。そこで動物の危機を救ってやり報恩(ほうおん)を受けるのを見ると、動物が献身的に尽くす好意も理解できる。動物援助から動物報恩に移行する過渡的(かとてき)な様相を帯びた話といえる。

分福茶釜(ぶんぶくちゃがま、ぶんぷくちゃがま)は、日本中で語り継がれている昔話のひとつ。文福茶釜とも表記する。タヌキがあらわれ、化けて人を騙す場面が見られる。江戸時代の赤本や絵本に、茶釜から顔や手足を出した狸の姿や傘を持って綱渡りをする姿がデフォルメされたことによって、そのイメージが広範にそして甚だしく笑話化されて伝えられてしまった。もともとは狐の恩返しをテーマにしたものであり『日本昔話大成』の中の「狐と博労」、「狐遊女」と同種の昔話である。そのルーツは群馬県館林市の茂林寺に伝わる伝説で、茂林寺には現在も狸が化けたとされる茶釜が伝わっている。茂林寺にある茶釜は、1394年から1428年の間に住職であった守鶴が愛用した茶釜で、一度水を入れると、一昼夜汲み続けても水がなくならないという伝説が伝えられている(松浦清山著『甲子夜話』に所収)。「分福」という名の由来については諸説ある。この茶釜はいくつもの良い力を持っていたが中でも福を分ける力が特に強くかったことに由来し、「福を分ける茶釜」という意味から分福茶釜と呼ばれるようになったという説や水を入れると突然「ぶくぶく」と沸騰することから「ぶんぶく」となったのではないかという説もあるが、どれが本当かははっきりしていない。古道具集めが一番の趣味である和尚さんが茶釜を買って寺に持ち帰る。茶釜を見ると汚れていたので弟子の小僧さんに茶釜を磨くよう命じるが、茶釜が洗っている途中に痛がったので、和尚さんに報告する。和尚さんは茶釜を水で満たし火に懸けたところ、何事もなかったので「雑念があるからだ」と小僧さんを叱る。しかししばらくすると茶釜が熱さに耐え切れず動き出したので気味が悪くなった和尚さんはたまたま近くを通りかかった貧しい古道具屋に茶釜を売ることにする。古道具屋はその夜奮発して鯛を買うが、食べようとしたところ鯛がなくなっていた。途方にくれる古道具屋だったが、茶釜を背負ったタヌキが「魚を食べたのは自分です」と白状する。茶釜は仲間との化け比べで元に戻れなくなったタヌキが化けたものだった。同情した古道具屋はタヌキが元に戻れるまでの間家に泊めることにする。タヌキはお礼に、綱渡りをする茶釜で見世物小屋を開くことを提案する。この考えは成功して古道具屋は豊かになり、タヌキも寂しい思いをしなくて済むようになったという恩返しの話である。近年ではその後、古道具屋がタヌキを元の姿に戻す方法を模索するが、タヌキは化けたままで居続けた疲れから病にかかり、古道具屋の看病も虚しく元に戻れないまま死んでしまう。悲しんだ古道具屋は茶釜を引き取った寺で和尚さんに全てを話してタヌキを供養してもらい、茶釜は寺の宝として安置されるという結末も存在する。


館林市(たてばやしし)

館林市(たてばやしし)は、群馬県南東部にある市。旧邑楽郡。上毛かるたで「ツル舞う形」と喩えられた群馬県の「ツルの頭」に位置する。今から約2万年前に館林に最初に人々が住み始めた事が確認されている。中世になると赤井氏(あかいし)、長尾氏(ながおし)、由良氏(ゆらし)などが館林を本拠地とし、最終的には1590年に徳川四天王の一人である榊原康政(さかきばら・やすまさ)が関東以北への押さえとして館林城に入り城下町を整備した。江戸時代の第五代将軍徳川綱吉(とくがわ・つなよし)が城主だった時期(25万石)もある。ツツジの名勝・群馬県立つつじヶ岡公園や、全国的に有名な分福茶釜の物語で知られる茂林寺、群馬県立館林美術館、製粉ミュージアムなどの観光地がある。群馬県の平成の大合併以前からあった市としては、唯一市町村合併を行わなかった市であるが、邑楽郡大泉町を除く邑楽郡4町との合併に向けた研究会を設置している(現在協議中)。小麦が多く取れることから、日本のチェルノーゼムと自称している。また七五三は、館林城主徳川徳松の健康回復を願って1681年に始まったものが全国に広がった。東毛地域と呼ばれる群馬県の東部に位置し、市域の北部は渡良瀬川を隔てて栃木県佐野市及び足利市、東部は群馬県邑楽郡板倉町、南部は明和町及び千代田町に、西部は邑楽町に接する。南北を渡良瀬川、利根川の2大河川に挟まれ、鶴生田川が市街地を東西に、市西部を多々良川、近藤川が南北に流れ、新堀川、新谷田川、谷田川が市南部を貫流している。城沼、多々良沼、近藤沼、茂林寺沼などの沼が点在する低湿地帯と台地(大宮台地から切り離された館林台地、主に低台地)から成り立っている。


北風(からっ風、赤城おろし)

冬から春先にかけて北風(からっ風、赤城おろし)が吹き、夏は雷が多く発生する。また、他県境付近の市(埼玉県熊谷市、群馬県前橋市など)と同様、しばしば摂氏40度近い猛暑に見舞われる。2007年8月15日には40.2度、翌16日に40.3度を記録した。また、2010年には猛暑日の年間日数を埼玉県熊谷市と共に国内最多の41日を記録した。さらに2011年の6月22日には全国で最初の猛暑日を記録した。また、この年も猛暑日の年間日数が30日と国内最多であった。2012年も同じく猛暑日の日数で32日と国内最多を記録。これらの猛暑の現象は発達した太平洋高気圧がもたらす温かい大気が当市の北西にある赤城山方面から熱風となって吹き降りるためである(フェーン現象)。アメダス観測所は館林消防署(美園町)敷地内の土の上に防草シートを敷き、設置されている。2001年から市民一斉気温測定を行い、市内の気温分布を調査している。アメダスの記録と比べ、露場が広く、芝生である館林城跡地では0.0~0.4度低く、交通量の多い道路沿いでは2~3度高い。館林市中心部では1~2度高く、郊外の森林や水辺では市街地より3~5度低いことから、高温は市街地で発生することがわかった(ヒートアイランド現象)。市民は打ち水や緑のカーテンなどで気温を下げる活動を行っている。2008年6月に「暑さ対策本部」(本部長は市長)を設置し、市民、企業、行政が一体となって暑さ対策に取り組むことになった。


満開に彩る館林つつじまつり

この地にツツジが植えられるようになったのは、戦国時代の末期に第7代館林城主だった榊原康政が、側室お辻の方が城沼へ身を投げたことを嘆き悲しみ、その霊を慰めるために彼女にちなんだツツジを城沼の南岸に植えたのがはじまり。その後、次第に増殖して名園になったと語り継がれている。だが、実際に歴代城主もツツジの保護には相当な力を尽くした。今では「つつじが岡公園」の約12.6haの広大な園内には、ヤマツツジ、キリシマツツジ、リュウキュウツツジなど150余品種、約1万株が植えられている。800年を越す古木もあり、花盛りには本当に花の山のように咲き誇る姿は、まさに圧巻でもある。群馬県立つつじが岡公園(ぐんまけんりつつつじがおかこうえん)は、群馬県館林市にある公園で、49,890m2の園内に50余種約1万株のツツジが植えられている。当公園内のツツジは、館林城の歴代城主から現在まで手厚い保護・育成が図られており、樹齢800年を超えるヤマツツジの巨樹群が自然形のままで保存され、歴史的価値は高い。また、日本における園芸つつじ栽培史上、特記すべき江戸キリシマ古木群も多数保存されている。また、1994年(平成6年)に打ち上げられたアメリカのスペースシャトル「コロンビア」の宇宙飛行士向井千秋が館林市出身という縁で、シャトルに搭載されたヤマツツジなどが「宇宙ツツジ」として当公園で生育している。花は4月下旬から5月が見ごろで、毎年「館林つつじまつり」が行われている。「躑躅ヶ岡」の名称で国の名勝に指定されている。地元では「花山」の名前でも親しまれており、小学生やボランティアが毎年5月下旬に、翌年美しい花を咲かせるために「子房摘み」という作業が行っている。つつじまつりが4月-5月の連休(ゴールデンウィーク)と重なるため、期間中は公園周辺はもとより館林市内、館林IC周辺の道路は混雑するため、俗に「つつじ渋滞」と呼ばれている。















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