鞄屋の娘

鞄屋の娘


















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向井千秋記念子ども科学館 - 館林市

向井千秋 宇宙飛行士











































向井千秋宇宙飛行士のお母様・内藤ミツさん

群馬県館林市出身で、鞄屋を営む内藤家の長女として生まれた向井千秋(むかいちあき 旧姓:内藤千秋)。「べにや」は内藤ミツさんが結婚したとき開業した鞄(かばん)のお店。雇い人もいて、みんなで食事をする大家族。お店の上の3階が住まいでしたが、ひとの出入りも多く、いつもにぎやかでした。広い家ですが、個室や勉強部屋はありません。「机がいるな」と思ったミツさんが与えたのが木のミカン箱。横にすると、座卓のようになります。そのミカン箱で、千秋さんは勉強や宿題をしていました。テレビを見たいときはテレビの方向にミカン箱を置いて、ながら勉強。ひとりになりたくなると、団ランから離れてミカン箱を片隅に置いて本を読んだり勉強したりしてました。「かわいそうだったなと思いますが、文句を言われたことはありませんでした」中学2年(館林市立第一中学校2年)まで個室はもちろん、自分の机もない千秋さんでした。




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向井千秋(むかいちあき 旧姓:内藤千秋)は、日本人女性初の宇宙飛行士。学位は、医学博士(慶應義塾大学、1988年)。1994年にスペースシャトル・コロンビア号、1998年にスペースシャトル・ディスカバリー号に搭乗した。2015年4月から東京理科大学特任教授 兼 副学長。これまでに国際宇宙大学客員教授、宇宙航空研究開発機構特任参与、宇宙医学研究センター長、日本学術会議副会長を歴任している。夫は病理医の向井万起男。群馬県館林市出身で、実弟は釣り師のヒロ内藤。館林北小(館林町立館林北小学校 - 現・館林市立第一小学校)から館林市立一中(館林市立第一中学校)へ進み、この頃医師を志すようになる。そのため、学校群制度が施行されて間もなかったとはいえ、東大に多くの合格者を送っていた都立日比谷高校から医学部進学を希望して、親に頼み自ら中学2年次(館林市立第一中学校・2年次)に上京し、品川の荏原二中(品川区立荏原第二中学校・しながわくりつ えばらだいにちゅうがっこう)に転校した。高校受験では、日比谷高、雙葉高、慶應女子高に合格し、日比谷に進学しようとしたところ、当時学園紛争の嵐が吹き荒れていた日比谷の状況を母親・ミツが心配して、ミツが慶應女子高を選択した。慶應女子高校時代は、医学部進学を目指して、7人もの家庭教師をつけたという“伝説”が生まれたほど頑張っていたが、医学部の附属女子3人枠に入れず、一般受験で慶應義塾大学医学部入学、練習のハードさでいわくつきだった当時の医学部スキー部に入部し、大学5年次には東日本医学部スキー大会の回転で優勝、大回転では3位に入賞した。外科医となってからは、慶應義塾大学病院では、慶應義塾大学出身者としては女性外科医第一号にあたる(同病院には、他大学出身の女性外科医は既にいた)。外科医をしていた1981年に、解離性大動脈瘤で入院した石原裕次郎の担当医の一人を務めている。この時の白衣がカンフーの道着に似ていたため、裕次郎から「カンフー姉ちゃん」とあだ名をつけられている。1985年8月10日、宇宙飛行士3人の発表があった。宇宙飛行士は、操縦担当のパイロット(PLT、操縦手)、船外活動のできるミッションスペシャリスト(MS、搭乗運用技術者)、実験担当のペイロードスペシャリスト(PS、搭乗科学技術者)に分けられるが、向井も含めた外国人搭乗員はPS要員にあたる。当時、操縦手やMSは機密技術の点で外国人に触れさせないNASAの方針からであった。1994年7月8日 - 23日、スペースシャトル・コロンビア号でのミッション (STS-65) に、ペイロードスペシャリストとして参加。金魚の宇宙酔い実験もした。この時の宇宙滞在時間は14日17時間55分で、女性の宇宙最長滞在記録を更新した(この記録は翌年のSTS-67で破られた)。1998年10月29日 - 11月7日、スペースシャトル・ディスカバリー号でのミッション (STS-95) で2度目の宇宙飛行。飛行中に「宙がえり 何度もできる 無重力」という短歌の上の句を詠み、これに続く下の句を募集し話題となった。宇宙開発事業団(現JAXA)によれば、14万5千首の応募があったという。趣味は、スキューバダイビング、テニス、ゴルフ、アメリカ文学、旅行、スキー、アルペンスキー、バス釣り、写真。




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“上げ膳、据え膳”

上げ膳据え膳(あげぜんすえぜん)・・・・・意味。上げ膳据え膳とは、自分は何もせず、すべて人にやってもらうことのたとえ。


群馬県館林市生まれ。14歳で都内の中学(品川区の荏原二中・えばらにちゅう)に転校するまでを過ごした

一番長く住んだのは米ヒューストンですが、今の私を形成したのは群馬の大地と、そこに住む人間のコミュニティー。暖かいけど冬が厳しい大地で、父母、親戚だけではなく、うるさいくらいおせっかいな近所のおじさん、おばさんがいて、子供たちがワイワイガヤガヤ。みんな貧乏で、父母も必死で働かないといけませんでした。ご飯は大皿料理みたいに何人分か分からない量を作り、それを近所の子もうちで食べたり、逆に私もよそで食べたり。昭和のよき時代で楽しかった。4人きょうだいの長女で、弟や妹を引き連れていました。近所の小学生から中学1年生くらいまでが一緒に遊んでいて、私は世話役。男のおみこししかなかったので、町内会長のおじさんに、女の子のおみこしを出すべきだって交渉して、作ってもらったり。


小学5年生(館林町立館林北小学校 - 現・館林市立第一小学校)のとき、作文に医師になりたいと書いた。志を貫き、慶応大医学部へ進学し心臓外科医になった。

心臓が生命の中枢と考えていて、医師なのにその人を助けられなかったという思いをしたくありませんでした。今では生命の中枢は脳だと思っていますが。実は医学部6年生の4月、小さな手術を見ていたら気持ち悪くなってしまい、私は外科は無理で内科に行こうと思いました。ところが8月の病院研修では内科医につくはずが、気がついたらずっと、救急外科医とか脳外科医とか、救急車が来る度にバーッと行って患者さんを助ける先生について回っていた。学生でも助けなきゃっていう意識があって手伝ううちに、血を見たり手術を見たりしても全然、気持ち悪くなくなりました。若くて元気なうちに、大変だといわれる外科で手術などを勉強すべきだと思い、それで外科に入ると「どうせなら心臓をやれば、患者さんの命を取り留められる」と。


宇宙飛行士は、医者に比べれば天国

多くの人が「宇宙飛行士の訓練って大変だったんでしょう」と言うけど、医者の方がよっぽど大変。飛行士の大変さは計画された大変さで、ある程度訓練しちゃうと、マラソンみたいにペース配分や注意点が分かる。ところが救急医は、体力を使い果たしちゃうと、次に患者さんが来たときに自分がへたっちゃう。ゴールがないマラソンみたいなもので、精神的にも肉体的にもつらかった。「今はつらいけど、この間のあれができたんだから、これは乗り越えられるはず」って、過去のことをベースに次のつらいことを乗り越えていました。宇宙飛行の訓練では8時間寝られて、ちゃんと管理された生活になっている。その意味で“上げ膳、据え膳”で、私からすると天国に近かった。ただ飛行士になって特につらかったのは、やっぱりスペースシャトルの事故で仲間が亡くなり、宇宙での科学実験の成果が全部なくなったことです。



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