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Dick Dale - Mexico
























































ディック・デイル(Dick Dale)は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン出身のギタリストである。本名、リチャード・アンソニー・モンスール(Richard Anthony Monsour)。左利きのギタリストで、主にフェンダーのアンプを使用する。父がレバノン人で、母はポーランド人。1954年頃にボストンから、カリフォルニア州オレンジカントリーに移住する。1962年、「Misirlou(ミシルルー、ミザルーとも)」がヒットする。後に、映画『パルプ・フィクション』や『TAXi』シリーズで使用され、リバイバル・ヒットとなった。1994年に公開されたクエンティン・タランティーノ監督の、大ヒットした映画パルプ・フィクションに"ミザルー"が使用され、再び注目されることとなったディック・デイル。主人公の不良カップルがダイナーらしき場所で、いきなり強盗おっ始めるシーンでかかる、デケデケデケデケ…というディック・デイルのギターは相当のインパクトがあった。それではサーフ・インスト・ミュージックの創始者であり、”王者”の称号が与えられる彼の活動を振り返ってみよう。サーフ・インストの創始者であり、サーフ・ギターの王者とも呼ばれるディック・デイルは、1937年5月4日、レバノンに生まれる。彼の父方の祖父母がレバノン生まれ、母方の祖父母はポーランド生まれと言われ、ディック・デイルの特徴的なギター・スタイルや音階の使い方に、こうしたルーツを指摘する声もある。本名リチャード・モンスール。モンスール一家は、リチャードが幼い頃、レバノンから、アメリカ東海岸のマサチューセッツ州に移住。リチャード9歳の頃に、彼は父親からピアノの手ほどきを受け、また独学でハーモニカやトランペット、ウクレレなどを覚えていった。そんな幼少の頃のことだが、ギターを持っていなかったリチャード少年は、近所の友人にギターを触らせてくれるように頼むが、あえなく断られてしまうという目に遭ったという。このエピソードもあって、後にディック・デイルはギターへの想いを強く抱くようになったとも言われている。その後暫くして、リチャード少年はようやく安価でギターを手に入れた。彼の当時の憧れは”アメリカの心”を歌ったハンク・ウィリアムスだった。’54年、リチャードがハイ・スクールに通っている時、モンスール家は西海岸カリフォルニアのエル・セグンドへ引っ越した。ハイ・スクール卒業後、航空会社の救助隊員として働き始めたリチャード青年は、その仕事と並行して、地元のカントリー系のバーで演奏するようになる。この頃、リチャードはカントリー・ミュージック・コンテストで賞を受けたというから、カントリー・ミュージシャンとしてもなかなかの腕前だったのだろう。またディック・デイルという名はこの時期、カントリー・DJによって付けられたものだった。’50年代半ばは良く知られるようにエルヴィス・プレスリーらが巻き起こした”ロックンロール旋風”が、多くのミュージシャンにインスピレーションを与えた時期だった。他のカントリー・ミュージシャン同様、ディック・デイルもこのムーヴメントに大きな影響を受けている。’55年から’56年にかけて、ディックはガレージで初のレコーディングを行うが、この時、録音されたロックンロール調の2曲は、’60年にディックの父が経営するデルトーン・レーベル(因みに彼のバンド、デルトーンズの名はここからとられた)からリリースされるまで、陽の目は見なかった。ディック・デイルの音楽はまずライヴから火が点いた。カントリーとロックンロールを半々、という当時の典型的なメニューともいえるディックのライヴは、次第にティーンエイジャーのサーファー達を中心に評判を呼んでいった。週末には1400人という数を集めるようになったそのライヴ人気がキカッケとなり、ディックは’59年デルトーン・レーベルから2枚のシングルをリリース。その後’60年末にバルボア岬のランデヴー・ボールルームでライヴを行なうようになった頃には、週末に4千人近くのファンが集まるほどになった。そうした中、’61年9月にリリースされ、初ヒットとなった曲が"レッツ・ゴー・トリッピン"だ。カリフォルニアのサーファーにとってこの”レッツ・ゴー・トリッピン”という言葉は、週末にディック達の演奏に合わせて踊ろうぜ、くらいの意味がこもったハヤリ言葉になったらしい。また、この曲にまつわるエピソードが有名で、まだ曲名の無かった同曲のタイトルは、ステージから常連の多かった観客に訊いて決めたという。そんな身近なコミュニケーションのとり方が可能だったというところにも、ディック・デイルがサーファー達の兄貴分的存在として慕われていたという事実の一端が見えるようだ。ディック・デイルの奏でる独特の質感を持ったギター・サウンドは、彼が本物のサーファーだったからこそ可能だったとする見方もある。波乗りを正にしている時に感じる感覚をイメージ的にではなく、リアルなフィーリングを込めて音にしようとしたからだ、という訳である。西海岸のサーフィンというと、何か仲間とツルんで遊ぶというイメージもあるが、実はサーフィンというスポーツの一側面として、”哀感”というものや”孤独”というのもあるのだ。陸では仲間とダベってても、一旦海に入れば最終的には自分だけが頼りの世界。そんな部分までも再現するかのようなディックの直感的なサウンドは、サーファー達にとって波乗りの心情を託せるものだったし、熱狂することも出来たに違いない。’62年にはあの"ミザルー"をリリース。またファースト・アルバム"Surfer's Choice"をリリースし、これは3ヶ月間でマイナー・レーベルとしては異例の7万5千枚を売り上げた。そうした人気を受けて、コンサートのキャパが問題になってきた。その結果、古巣のランデヴー・ボールルームから、より収容観客数の多いパサディナのシヴィック・オーディトリアムへとライヴの拠点を移すこととなった。しかし、そこでも会場内3千人に対して、外で入場の順番を待つ人々が4千人も居たというのだから、もの凄い人気だった。この人気に注目した大手レーベル、キャピトルは、ディック・デイルとバンド達と契約を結び、デルトーン時代のレコードを再発した。その後グレン・キャンベル、レオン・ラッセル、ハル・ブレイン、ブロッサムズなど錚々たるメンツが参加したアルバム"King of Surf Guitar"を’63年にリリース。その豪華なプロダクションに反して、これは思ったほど売れなかった。また続くホットロッド・アルバムもコケた。’65年までリリースが続いたキャピトルでのアルバムはどれもセールス的に不振に終わった。そうこうするうちに、ディック・デイルとキャピトルとの契約は終わってしまうのだった。「エド・サリヴァン・ショウ」への出演や、キャピトルが講じたプロモーション態勢は充分なものだったが、ディック・デイルは何故か売れなかった。また西海岸以外のツアー先での演奏も、ディックのパフォーマンスと観客とのズレで空振りに終わることもあったようだ。カリフォルニアが生んだローカルなカルト・ヒーロー、ディック・デイルの魅力は全米規模では充分、発揮されなかったと言える。’65年からは全米をビートルズを筆頭とするブリティッシュ・インベイジョン勢が席巻した。そんなこともあって活動がしにくくなった矢先、ディック・デイルは直腸癌を宣告され、あと3ヶ月の命と言い渡された。手術の成功によって奇跡的に命をとりとめたディックはその後、ハワイに渡り、タヒチアンのダンサー、ジーニーと出会い、一緒に演奏をするようになる。その後’71年、アメリカ本土へ戻ったディックは地味な活動を続けていった。’73年、インターナショナル・サーファーズ・ストンプというイベントに参加。’75年には再録音ベストのディック・デイルズ・グレイテスト・ヒッツをGNP・クレッセンド・レーベルからリリース。’80年代に起こったサーフ・ミュージックのリヴァイヴァル時期にもディック・デイルは健在ぶりをアピールした。その後、最初に記したように’90年代に入ってからのパルプ・フィクション人気で、ディック・デイルは、これまでにないほどの規模で注目を得た。ディックはヨーロッパやオーストラリア、そしてここ日本といった世界規模でのツアーを廻り、待ち望んだファンはそれを熱狂で迎えたのだった。

















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