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永遠の夢に向かって優勝 前橋育英高校 

 

優勝 前橋育英高校 

優勝 前橋育英高校 


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第95回全国高校野球選手権記念大会(日本高校野球連盟など主催)は2013年8月22日(木曜日)、兵庫県西宮市の甲子園球場で決勝戦が行われ、前橋育英(群馬)が延岡学園(宮崎)を4―3で破り、1991年の大阪桐蔭(大阪)以来22年ぶりとなる初出場初優勝を果たした。

夏の甲子園での優勝は、桐生第一が優勝した第81回全国高校野球選手権大会(1999年)以来14年振りの群馬県勢の優勝です。桐生第一が優勝した時もベンチ入り全員が群馬県出身の選手でした。今大会でも前橋育英は17人が地元群馬の出身でしかも軟式野球出身が多いメンバーです。




 前橋育英高校 野球部 3つの決まり事

ボールがバットに当たったら、打った瞬間に「間に合わない」と思うようなゴロでも、簡単に捕球されそうなフライでも、必ず全力疾走すること。
 
キャッチボールを丁寧に、1球1球を何となく投げるのではなく、心を込めて、どこに、どうやって投げるかを重視すること。
 
ミスをしたらそれで終わりではなく、ミスをした後に何ができるかを探して判断し、ミスをただのミスで終わらせないこと。




日大藤沢出身・荒井直樹監督(前橋育英高校野球部)


初の大舞台 スタンド沸かせた前橋育英野球

プレーボールの合図から、わずか1分。
 
岩国商業の先頭打者、横田啓樹の放った打球が二遊間に転がる。タイミングも場所も、一塁側の岩国商業の応援団からすれば「抜けた」と思ったボールに、前橋育英のセカンド、高橋知也が追いつく。体勢を崩しながら捕球した高橋知は、自分が起き上がってから投げては間に合わないと判断し、バックハンドでショートの土谷恵介にトス。受け取った土谷がファーストへ送球したが、ランナーの足が一歩早く、記録は内野安打。結果的に見れば、先頭打者を出塁させてしまったのだが、ランナーが出た岩国商業よりも、むしろこのプレーに盛り上がったのは前橋育英であり、初出場校が最初に見せた華麗なプレーに、スタンドからはどよめきが起こった。

そして、それ以上に盛り上がったのが、当の本人たちだった。

「試合で、初めて決まったよ! すげぇな」
 
興奮気味に話す高橋知と土谷を、指揮官は笑って迎えた。

「何をやっても怒られないから、自分たちがやりたいことを勝手にやって、楽しんでいるんですよ」
 
縛られることなく、初めての大舞台を、全力で楽しむ。それこそが、前橋育英野球の真髄だ。


「当たり前」の事にこだわる 3つの決まり事
 
荒井直樹監督が、母校の日大藤沢高校監督、前橋育英高校コーチを経て、監督に就任したのは今から12年前の2001年だ。全国に名を馳せるサッカー部に続いて、野球部の強化も本格化した頃であり、当時は関西や関東から越境入学してくる選手もいたが、「まず地元に愛されるチームになる」ことに重きを置いた荒井監督は、群馬県内の選手だけでも勝てるチームづくりに着手した。細かなことまで口を挟み、必要以上に選手を管理しない代わりに、守るべきスタイルだけは貫く。監督自身の座右の銘でもある「凡事徹底」をスローガンに掲げ、大きな決まりごとは3つ。

1つは、ボールがバットに当たったら、打った瞬間に「間に合わない」と思うようなゴロでも、簡単に捕球されそうなフライでも、必ず全力疾走すること。
 
2つ目は、キャッチボールを丁寧に、1球1球を何となく投げるのではなく、心を込めて、どこに、どうやって投げるかを重視すること。
 
そして3つ目は、ミスをしたらそれで終わりではなく、ミスをした後に何ができるかを探して判断し、ミスをただのミスで終わらせないこと。

すぐに結果だけを求めるならば、他にもっと効率的なやり方があったかもしれない。実際に、「良いチームだ」と言われながらもなかなか甲子園出場が果たせず、1年、また1年と時が過ぎるたびに「こんなやり方でいいのか」と叱責されることもあったと言う。勝っている時には評価される「当たり前」のことがおろそかになり、勝てないと「もっと特別なことをすべきではないか」と非難される。「すぐに結果が出ないと当たり前のことすらやめてしまおうとするけれど、少しずつの成果でもいいから、続けること。それが一番大事なことだと思って、ここまでずっとやってきました」
 
こだわりを捨てられない理由。それは、荒井監督が「失敗の繰り返し」と振り返る経験の中にあった。

後輩には山本昌 野球選手としての荒井直樹監督
 
日大藤沢高校3年時、荒井監督は神奈川県大会で前人未到の2試合連続ノーヒットノーランという大記録を打ち立てた。松坂大輔や松井裕樹、名だたる夏の主役を輩出した神奈川の高校野球の歴史をひもといても、この記録を為し遂げた選手はいない。それほどの大記録ではあるのだが、実はそれすらも、荒井監督には苦い経験でしかない。なぜなら当時、チームのエースナンバーをつけたのは1学年下で、現在も中日で活躍する山本昌であり、チームの初戦や、シード校との対戦時は自分に登板機会が回ってくることはないまま、甲子園に届くことなく高校生活を終えたからだった。

卒業後、投手としていすゞ自動車へと進んだが、3年で野手へコンバートされた。“転向”と言えば響きはいいが、実際は「これで結果が出なかったらクビ」と宣告されていた。1年1年、新しい選手が入ってくるたびに自分はどうなるのか不安に駆られる。友人に「クビになったらお前の職場で働かせてくれるかな?」と本気で尋ねたこともあった。プロではなく、ノンプロの世界と言えど、野球を仕事にしている以上、結果は野球で出さなければならない。足が速いわけでもなく、肩が強いわけでもない。平凡な自分が競争の中で打ち勝っていくためには、反復練習しかないと信じ、ただひたすら素振りに明け暮れる日々が続いた。

“あの時”を重ねて、たどり着いた1勝
 
地道な努力は、ある日突然、道を拓くきっかけになる。

クビを覚悟して臨んだ3年目のシーズンに、ようやくチャンスをつかみ、レギュラーの座を獲得。1996年にチームを退くまで、都市対抗野球に7度の出場を果たした。「同じことをやり続けてきたからこそ、感じられる変化がある。振り返ると、それは決して派手なことでもなくて、地道で、当たり前のことばかりなんですよ」今指導者として選手たちに言い続けていることは、他でもない。荒井監督自身が経験し、実感してきたことばかりだった。春夏通じて前橋育英にとって初めての甲子園出場となった2011年のセンバツは、「フワフワしていて何をしたか覚えていないまま終わった」と振り返るように、監督にとっても、チームにとっても不完全燃焼のまま終わった。あれから2年。県では昨年の秋季大会、今年の春季大会を制し、群馬の優勝候補筆頭に。プレッシャーにも屈することなく、初めてつかんだ夏の代表切符。そんな選手たちを後押しすべく、前橋から49台のバスで応援団が訪れた。中には、荒井監督が就任した年、今のチームと同じように「優勝候補」と謳われながらも、県大会の準決勝で9回ツーアウトからのサヨナラ負けに泣いたOBたちもいた。

「いろんな“あの時”があるから、今がある。最高の時間でした」

初勝利に胸を張り、甲子園に前橋育英高校の校歌が響く。
 
当たり前のことを、当たり前に。積み重ねてきたさまざまな失敗の経験が、報われた瞬間だった。


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