永遠の夢に向かってスージー・スージー・スージー

 

スージー・スージー・スージー

スージー・スージー・スージー



















「なぜベースを選んだのですかって?そりゃ、股間にひびくからよ」

「アメリカ生まれのわたしがイギリスからデビューしたからってなによ。ロックに国境がある?」

「わたしはね、ロックンロール、ただそれだけあればいいと思ったのよ。なぜロックかって?ヤボな質問ネ」



















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Suzi Quatro - The Wild One



































1950年6月3日の米デトロイト、ジャズ・メンである父のもと5人兄弟の4番目の子としてスージー・クアトロは生まれた。スージー・クアトロは7歳から父のジャズ・バンドでボンゴを叩き出し、ローカルテレビのGO-G0ダンサーを経験した後、1964年姉のパティと女の子だけのバンドSuzi Soul And The Pleasure Seekersを結成。その頃はモータウン系のR&Bに夢中だったようだが、1968年ベトナムへツアーに行き、軍隊の前で唄った時からロックンロールに目覚めた。その後ベース・ギターを習得し、Cradleというハードロック・バンドを結成、ベース&ヴォーカルとして活動を始める。1971年、そのCradleでプレイしていたスージー・クアトロをジェフ・ベックのレコーディング(ギタリストの彼に歌を唄わせ、シングル・ヒットを狙っていた)のためアメリカへ来ていたミッキー・モスト(アニマルズ、ドノヴァンのプロデュースで知られる)が偶然発見し、彼女をとても気に入って、イギリスへ来ないか?と誘うのだった。その誘いへの決断には6ヶ月の歳月を要したが、結局スージー・クアトロは単身イギリスへと渡ることにした。これに喜んだミッキー・モストは、すごい力の入れようでスージー・クアトロをバック・アップし始める。まずはスージー・クアトロを1年半かけてプレイヤーとして徹底的にレッスンさせ“本物”に鍛えあげ、自らはRAKレーベルを設立し、スージー・クアトロを送り出す万全の体制を整えた。そして、ようやく1973年シングル「ローリング・ストーン」でデビュー。だが、これは不発に終わり、すぐさまミッキー・モストは次の手を考えるのだった。スイートやスモーキー、ブロンディなどへの曲提供で知られるマイク・チャップマンとニッキー・チンに曲を依頼、バック・バンドには、わざとムサ苦しそうな大男軍団Britons Alastair McKenzie(kb)、Dave Neal(ds)、Len Tuckey(g)を起用、さらにちょうど当時流行し出したグラム・ロッカーっぽく見せるために、スージー・クアトロにレザー・スーツを着るよう提案し、セカンド・シングル「キャン・ザ・キャン」をリリースした。これが大当たりし、またたく間に全英No.1に輝いた。この年出したファースト・アルバム「サディスティック・ロックの女王」(それにしても凄い日本語タイトルだ・・・(^_^;)も大ヒットを記録。このアルバムからさらに「48クラッシュ」など4曲が全英でトップ10ヒットとなった。翌年あたりには、この人気が日本やオーストラリアなどにも飛び火し、この後出したシングル「デイトナ・デイモン」と「悪魔とドライヴ」は全英No.1、「トゥ・ビッグ」も大ヒットし、日本でも売れまくった。つづいて、同じ体制で1974年リリースしたセカンド・アルバム「陶酔のアイドル」もビッグ・ヒットを記録し、シングル・カットした「ワイルド・ワン」は日本でもお馴染みだ。このアルバムが日本で如何に売れたかというと・・・80年代に中古レコード店に売りに行ったところ、「お客さん、コレ値段付きませんよ。だって、棚を見てください!いっぱい余っちゃってるでしょ!」(^_^;と言われたことからも想像がつくはず。1975年になると少し路線を変更し、R&Bを取り入れたサウンドのサード・アルバムを発表。ここからも「ママのファンキー・ロックンロール」のヒットが生まれている。また、スージー・クアトロは日本好きでも知られ、1974年~1978年まで連続で来日を果たし、なんとこの頃バック・バンドのギタリスト、レスターと日本で着物を着て和式の結婚式を行っている。しかし、この後スージー・クアトロはアメリカ進出も意識し始めたプロモーター達の思惑によって、しだいにポップ路線に走り出す。1975年リリースのアルバム「クワトロ白書」からは、「恋するヤングガール」のヒットを放ったものの、ハード路線が好きだった日本やイギリスのロック・ファンの間では人気が陰り始めた。だが、ポップス・チャートではその後も「恋はドッキリ」「やさしくスマイル」「スリルがいっぱい」とスマッシュ・ヒットを連発している。1978年になると、いよいよアメリカ進出工作も本格化し、既にアメリカで成功を収めていたスモーキーのクリス・ノーマンとのデュエット・シングル「Stumblin' In」をアメリカでリリース。これは思惑通りUSチャートを駆け上り、最高位5位を記録したが、逆にイギリスでは40位にも入らない状態に陥った。うまくいかないものだ・・・。そのヒットと前後してリリースされたアルバム「If You Knew Suzi」はジャケットを見てもらえば分かるとおり、かなりそれまでの雰囲気とは違って、完全にポップス歌手として売り込もうという意図がくみとれる。過去にもロック界で活躍した女性は、ジャニス・ジョップリンやグレース・スリック(元ジェファーソン・エアプレイン)などがいたが、彼女たち自身はロックというより、R&Bやブルース、ジャズといった音楽に傾倒し、バックのプレイヤーがたまたまロッカーだったことから、女性ロッカーと言われていたのが本当のところだろう。しかし、スージー・クアトロの場合、やはり最初はかなりR&Bに傾倒していたものの、途中から完全にハードロックへ移行し、さらにミッキー・モストによって、徹底的に唄と楽器を教え込まれたため、ソロ・デビュー時には既に男達と何ら変わらぬレベルにまで成長していた、紛れもない“ロッカー”なのだ。その自信の表れが、スージー・クアトロに数々の名言を生み出させた。その語録を最後に少し・・・「なぜベースを選んだのですかって?そりゃ、股間にひびくからよ」「アメリカ生まれのわたしがイギリスからデビューしたからってなによ。ロックに国境がある?」「わたしはね、ロックンロール、ただそれだけあればいいと思ったのよ。なぜロックかって?ヤボな質問ネ」「男なんてなによ!いつも女のようにグチュグチュしてさ!」「わたしって、女よ!」














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