永遠の夢に向かってIt's easier than learnin' your ABCs (ABCを覚えるのよりも簡単さ)

 

It's easier than learnin' your ABCs (ABCを覚えるのよりも簡単さ)

It's easier than learnin' your ABCs (ABCを覚えるのよりも簡単さ)

















The Loco-Motion ロコモーション

(Grand Funk / グランド・ファンク)


Everybody's doin'
a brand new dance now
(Come on baby, do the Loco-Motion)
I know you'll get to like it
if you give it a chance now
(Come on baby, do the Loco-Motion)


みんなが最新の新しいダンスを
踊ってるよ!
(踊ろうぜ ロコモーションを)
きみも好きになるはずだよ
一度試してみればいいんだ
(踊ろうぜ ロコモーションを)


My little baby sister
can do it with ease
It's easier than learnin' your ABCs
So, come on, come on,
and do the Loco-Motion with me


俺のちっちゃな妹だって
簡単に踊れるのさ
ABCを覚えるのよりも簡単なのさ
だから 来いよ! 踊ろうぜ
俺と一緒にロコモーションしようぜ


You've got to swing your hips now
Come on
Jump up
Jump back
Oh well, I think you've got it now


お尻を左右に振るんだよ
そうさ
ジャンプして
後ろに跳ねて
どうだい もうわかったかい


Woah, woah
Now that you can do it,
well let's make a chain now
(Come on baby, do the Loco-Motion)
A chuga-chuga motion
like a railroad train, now
(Come on baby, do the Loco-Motion)


もうきみはできたよね
そしたら次は一列になろう
(おいでよ ロコモーションしようぜ)
シュッポシュッポするんだよ
そう、機関車のようにね
(おいでよ、ロコモーションしようぜ)


Do it nice and easy now,
and don't lose control
A little bit of rhythm
and a lot of soul
So, come on, come on,
and do the Loco-Motion with me


カッコよく決めて くつろぐのさ
調子を外さないでよ
ちょっとのリズムと
でっかいソウルがあればいいのさ
そうだからさ 行こうぜ
ロコモーションを俺と一緒にさ!


Woah, woah
Move around the floor
in a loco-motion
(Come on baby, do the Loco-Motion)
Do it holdin' hands
if you get the notion
(Come on baby, do the Loco-Motion)


機関車のように一列になって
フロアを一周するんだ
(どうだい ロコモーションしようぜ)
もしコツがわかったら
手をつないでやってみようぜ
(どうだい ロコモーションしようぜ)


There's never been a dance
that's so easy to do
It even makes you happy
when you're feelin' blue
So, come on, come on,
and do the Loco-Motion with me


こんな簡単に踊れる
ダンスはないんだよ
気分がブルーな時だって
みんな笑顔になっちゃうよ
そうだからさ
ロコモーションを俺と一緒にどう?


(Come on baby, do the Loco-Motion)
So, come on, come on,
and do the Loco-Motion with me
(Come on baby, do the Loco-Motion)
So, come on, come on,
and do the Loco-Motion with me
(Come on baby, do the Loco-Motion)


ロコモーションを一緒に踊ろう
ロコモーションを一緒に踊ろう


















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Grand Funk Railroad







































The Loco-Motion ロコ・モーション

「リトル・エヴァ」こと "Eva N. Boyd"(エヴァ・ボイド)によって歌われたこの曲は1962年に全米1位となりました。この曲は色々な人が歌っていますが、12年後にグランド・ファンク・レイルロードによるカヴァーが同じく全米1位となり、更に14年後の1987年にはカイリー・ミノーグのヴァージョンが全米1位となっています。リトル・エヴァはゲリー・ゴフィン&キャロル・キング夫妻の家でベビー・シッターとして働いていて、それについては色々な説が伝えられているのですが、彼女が歌えることを知っていた夫妻がこの曲を彼女に歌わせたというのが真相です。タイトルの "Loco-Motion"(ロコ・モーション)は辞書を引くと「移動」とか「運動」と出てきますが、アメリカで "Locomotive(ロコモーティブ)" というと機関車のことで、蒸気機関車のSL は "Steam Locomotive(スチーム・ロコモーティブ)" の頭文字ですし、"Loco-man(ロコ・マン)" だと「鉄道員」となります。この歌詞では最新のダンスの名前ということになっていますが、実を言うとそんな踊りは無く、この曲がヒットしてから急いで振りを考えました。機関車の車輪をつないでいるロッド(横棒)のモーション(動き)を真似て、子供が電車ごっこをするみたいな振り付けをしています。1974年のグランド・ファンクのバージョンは、スタジオでギタリストの Mark Farner(マーク・ファーナー)がこの曲を口笛で吹いていたのがキッカケで生まれ、プロデューサーはトッド・ラングレンで、彼ら(グランド・ファンク・レイルロード)にとって最大のヒット曲となりました。現在でもTVのコマーシャルで使われているのは彼ら(グランド・ファンク・レイルロード)のヴァージョンです。 


アメリカンNo.1ロック・バンド、驚異の暴走列車GFR

アメリカのハードロック・バンド、グランド・ファンク・レイルロード。4人編成になってからはグランド・ファンクと短く改名しています。レッド・ツェッペリンの前座で主役を蹴散らしたことや、雷雨の中で行われた後楽園球場での来日公演など伝説を残します。「We're an American band~♪」と自らも唄っていた通り、70年代初頭~中期にかけて、当時のブリティッシュ・ハード全盛期の中にあって、唯一アメリカで対抗できるハードロック・バンドがGFR(グランド・ファンク・レイルロード)だった。また、当時はまだ「産業ロック」なる言葉もなかったが、GFRはまさに産業ロック的な売れ方をしたアメリカで初めてのバンドでもある。誤解のないように言っておくと、「産業ロック」とは一部の評論家達が悪意を込めて中傷するために使っていた場合もあるが、ここで言う産業ロック的とは、売るために過大なプロモーション活動をしたり、シングル用にわざと4,5分に収まるポップ調の曲を入れることで、悪意はない。

オリジナルメンバーは、

Mark Farner マーク・ファーナー/ギター・ヴォーカル
Don Brewer ドン・ブリューワー/ドラムス、ヴォーカル
Mel Schacher メル・サッチャー/ベース・ギター

GFRはインディアンの血を引くマーク・ファーナーと同じバンドでプレイしていたドン・ブリューワーが1968年ベースのメル・サッチャーを誘い結成され、翌69年にアトランタ・ポップ・フェスティバルで衝撃デビューを果たした。ノーギャラで出演したとも言われるこのイベントには、12万5千人もの観客が集まり、この3人の大音量でエキサイティングなステージはたちまちのうちに評判になった。しかし、当時の米ロック界には、レッド・ツェッペリンやディープ・パープル、ブラック・サバス、ユーライア・ヒープなどイギリスのビッグ・ネーム達が次々と上陸し、ブリティッシュ・ハード旋風が吹き荒れていた。国内のバンドにはとても太刀打ちできるような勢いもなく、GFRもまたそういったビッグネーム達の前座にすぎなかった。ところが、ライブでの彼らのパフォーマンスは、そういったビッグ・ネームと対等以上に渡り合えるパワーを持っていたことから、当時のマネージャーやレコード会社は誇大広告や過大プロモーションを仕掛け、彼らをブリティッシュ勢と並ぶビッグ・ネームに育てようと画策した。1年の間に3枚ものアルバムを出し、全米ツアーも敢行、宣伝では今度のツアーでは何万人集まった・・・とあおりたて、気が付いてみれば、本当にライブではアメリカ随一のバンドにのし上がっていたのだ。それは、マジソン・スクエア・ガーデンでのコンサート・チケットが、発売後ソールドアウトになるまでの時間で、ビートルズの記録を上回ったということからも明らかだ。71年には初来日も果たし、豪雨の後楽園球場(現東京ドームにあった屋外型球場)で伝説的なパフォーマンスを見せている。だが、彼らが本当の意味で名実共に世界で認められるビッグ・バンドとなるのは、72年キーボードにCraig Frost クレイグ・フロストが加入後、バンド名を「グランド・ファンク」と縮めてからのこと。クレイグ加入後2枚目(正式にはPhoenixではまだゲスト扱い)、通算8作目となる73年リリースのアルバム「アメリカン・バンド」はプロデューサーに奇才トッド・ラングレンを迎えて全米2位の大ヒットを記録。同タイトルのシングルは、なんとハードロック・バンドとしては異例の全米No.1に輝き、一躍世界のトップスターに仲間入りした。翌74年には、再びトッド・ラングレンのプロデュースで、「輝くグランド・ファンク」をリリースし、そこからのシングルでオールディーズのカヴァー曲でもあった「ロコモーション」は、なんと全米2週連続1位、トップ40に連続14週とどまるという、とてつもない記録をうち立てた。その後も彼らは、キッスやエアロスミスの出現により、アメリカンロックが本格的に復権する70年代半ばまでの間、常にアメリカンNo.1バンドとしての地位をキープし続けた。そして、76年バンド名を再び「グランド・ファンク・レイルロード」に戻して、最後のスマッシュ・ヒット「テイク・ミー」を放ち、その役目を終えたかのように解散した。余談だが、その解散直前に発売されたフランク・ザッパ・プロデュースの「熱い激突」は、実は「驚異の暴走列車」より前に録音されたもので、ザッパが録音後に持ち帰り、半年以上もミックス・ダウンを行っていたため、発売が遅れリリース日程が前後してしまったそうだ。この「熱い激突」は、GFR最大の魅力であるライヴ感覚を見事にスタジオで引き出した、ザッパの名プロデュースが光る名作だ。もっと早くリリースしていれば、間違いなく大ヒットしていたことだろう。解散後は、マークはソロに転向、他の3人はフリントというバンドを結成するが、共にパっとせず、81年にマークとドンはベースにDennis Bellinger デニス・ベリンジャーを迎えての「グランド・ファンク」名義で2枚のアルバムをリリースした。しかし、これも成功するには至らず、自然消滅してしまった。1996年には再びベースにメルを引き戻し、オリジナル・メンバーで「グランド・ファンク・レイルロード」として復活、1枚のアルバムをリリースしたが、長くは続かず2年ほどで再びマーク・ファーナーはソロに転向、2003年にマーク自らのバンドN'rG名義のライヴ盤をリリースした。


70年代前半に最も“アメリカ”らしかったバンド

彼らのサウンドを一言で表すならば「豪快」「痛快」「元気」など、いずれもスカッとするような快感サウンドを思い浮かべるだろう。特にドラムを叩きながら唄うドンの図太い声(「アメリカン・バンド」は彼のヴォーカル)や所狭しとステージ上を暴れまくりながらも、確実なテクで名フレーズを生み出すマークのギターが特徴的だった。全体的にはストレートかつパワフルで、陽気で乾いたサウンド、どれをとってもアメリカ的で、そのステージ・パフォーマンスと合わせ、おそらくロック史上最もアメリカ的なバンドだったのではないだろうか。70年代初頭といえば、ちょうどヒッピー・カルチャーやサイケデリック・ブームが一段落し、それを吸収したブリティッシュ勢達が、ハードロックとプログレッシヴ・ロックに分かれ、大挙してアメリカへ渡ってきた頃だ。アメリカ国内では、一部にサザンロックなどの活躍もあったが、その新鮮なサウンドと派手なパフォーマンスのブリティッシュ勢を前に、彼らはいかにも地味であった。特にクラシック・ミュージック等と組み合わされた難解なサウンドには、ヨーロッパと伝統が違いすぎるアメリカ人達にとっては、同じ土俵では到底かなわない領域でもあった。GFRは、それとは全く正反対の分かりやすいストレートさで押すタイプだったが、唯一派手なパフォーマンスではブリティッシュ勢に引けを取らないバンドであった。この彼らの特徴を殺すことなく、うまくブリティッシュ・エッセンスを振りかけながら料理したのが、自らもバンドを率いて活動していた奇才トッド・ラングレンで、彼のプロデュースにより、サウンドが格段に分厚くなり洗練された。その後も、キッスやスリー・ドッグ・ナイトを育てたジミー・イエナーや、これまた奇才のフランク・ザッパなど、次々と名プロデューサーにも恵まれた。しかし、それでも彼ら自身、根底ははまったく変わらなかったことが、良さでもあり、逆に最後には新鮮さを欠き失速していく原因にもなってしまった。とは言え、70年代前半、孤軍奮闘し、他の若いアメリカン・ロック・アーチスト達へ、成功への秘訣を示した功績はたいへん大きい。この後つづく、売れすぎて「産業ロック」と皮肉られたアーチスト達へ多大な影響を与えたことは間違いない。




1969年 On Time(グランド・ファンク・レイルロード登場)*名曲「ハート・ブレイカー」を収録
1970年 Grand Funk(グランド・ファンク)*通称レッド・アルバム。全米11位まであがるヒットを記録した
1970年 Closer To Home(クローサー・トゥ・ホーム)*同タイトルのシングルもスマッシュ・ヒットした
1970年 Live Album(ライブ・アルバム)*2枚組のライブ盤。この年3枚目のというハイペースでのアルバム・リリース
1971年 Survival(サバイバル)*R・ストーンズの「ギミーシェルター」やデイブ・メイソンの「イッツ・オールライト」のカヴァー・ヴァージョンも収録
1971年 E Pluribus Funk(戦争をやめよう)*5日間でレコーディングしたといわれる、驚異的なスピード・リリース
1972年 Phoenix(不死鳥)*クレイグ・フロスト(kb)が加入し、サウンドに広がりができた。「ロックンロール・ソウル」がスマッシュ・ヒット
1973年 We're An American Band(アメリカン・バンド)*記念すべき全米初No.1ヒット「アメリカン・バンド」を含む名盤。トッド・ラングレン・プロデュース
1974年 Shinin On(輝くグランド・ファンク)*「ロコモーション」が全米2週連続1位というビッグ・ヒット。このアルバムもトッド・ラングレンがプロデュース
1975年 All The Girls In The World Beware(ハード・ロック野郎)*プロデュースをジミー・イエナーに代え、さらにポップになった
1975年 Caught In The Act(グランド・ファンク・ツアー'75)*GFRと言えばやはりライブが最高です!2枚組でその迫力も倍増。
1976年 Born To Die(驚異の暴走列車)*再びジミー・イエナー・プロデュースによる彼らが最後に録音したアルバム。「テイク・ミー」がヒット
1976年 Good Singing,Good Playing(熱い激突)*フランク・ザッパがプロデュースした話題作だったが、発売が遅れ、実質ラストアルバムになってしまった
1981年 Grand Funk Lives(グランド・ファンク復活)*再結成後初のアルバム。Livesとは「生きている」という意味でライヴではない
1983年 Whats Funk(ホワッツ・ファンク)*再結成後2枚目にして最後のアルバム
1997年 Bosnia(ボスニア)*再び再結成して行ったボスニア救済チャリティコンサートを収録したライブ盤2枚組。ピーター・フランプトン(g)がゲスト出演
1999年 Thirty Years Of Funk 1969-1999(30イヤーズ・オブ・ファンク1969-1999)*3枚組のベスト盤
2002年 Live: The 1971 Tour(1971ライヴ)*突然リリースされたトリオ時代末期のライヴ




グランド・ファンク・レイルロード(Grand Funk Railroad, GFR)はアメリカのハードロック・バンド。1960年代末から70年代半ばにかけて商業的成功を収めた。二度の解散と再結成を経て、2012年現在も活動中である。「テリー・ナイト・アンド・ザ・パック(Terry Knight and the Pack)」というバンドで活動していたドン・ブリューワー (Don Brewer, ds)とマーク・ファーナー (Mark Farner, vo & g)、が、テリー・ナイト(Terry Knight)がバンドを去ったのを機に、メル・サッチャー (Mel Schacher, b) を誘い新バンドを結成。バンド名はアメリカの鉄道会社「Grand Trunk Western Railroad 」をもじって名付けられた。1968年頃より勃興していたニューロック、又はヘヴィロック(現在のハードロック)のスタイルをいち早く取り入れ、1969年にかつての同僚であるナイトをプロデューサーに迎えたアルバム『グランド・ファンク・レイルロード登場 (On Time) 』でデビューする。レッド・ツェッペリンのアメリカ公演の前座をやった際にその凄まじい歌と演奏力で聴衆を熱狂させたことにより、ロックファンにその名を轟かすようになる。アルバムからシングルカットされた「ハートブレイカー」はハードロックの古典となっており、ザ・タイガースがコンサートのレパートリーとして取り上げたり、後々フォークシンガーとしてデビューする井上陽水がこの曲のコード進行を模倣して「傘がない」を書いたように、日本では早くから人気があった。1971年の来日公演は激しい雷雨の中で行なわれた。当時のロック伝説のひとつに数えられる後楽園球場の演奏は、あまりの過激ぶりに主催者の内野二朗は怒りと心痛で疲労困憊。これがキョードー東京がハードロックを手掛けない理由の一つになった。1972年の『不死鳥(Phoenix)]』からはナイトと決別し、クレイグ・フロスト (Craig Frost, kbd) を迎えて音楽性をポップな方向に広げ、バンド名をグランド・ファンク(Grand Funk)に変更した。1973年、トッド・ラングレンにプロデュースを委ねたアルバム『 アメリカン・バンド (We're an American Band) 』を発表。同名シングル曲が全米1位を獲得する大ヒットを記録、このアルバム・タイトルはそのまま彼らの代名詞となり、ボン・ジョヴィなど後に登場するアメリカのロックバンドにライブなどで何度もカバーされている。続くアルバム『輝くグランド・ファンク (Shinin' On) 』では、1962年に全米1位を獲得したジェリー・ゴーフィン & キャロル・キング作によるリトル・エヴァ (Little Eva) の大ヒット曲「ロコモーション (The Loco-Motion)」をハードロック風にアレンジしたカバーがシングルカットされ、こちらも全米1位を獲得、グランド・ファンク最大のヒットシングルとなった。1976年の『驚異の暴走列車(Born to Die)』を発表しCapitolとの契約は満了した。同年、MCAからフランク・ザッパプロデュースの『熱い激突(Good Singin', Good Playin')』を発表するがこの1枚で解散した。解散後、ファーナーはソロでMark Farner(1977年)、No Frills(1978年)の2枚のアルバムを発表した。ブリューワー、サッチャー、フロストの3人はFlintを結成しFlint(1977年)を発表した。1980年、ファーナーとブリューワーの2人によってGFRは再結成された。『グランド・ファンク復活(Grand Funk Lives)』と『ホワッツ・ファンク?(What's Funk ?)』と2枚のアルバムを発表するがヒットを出すことはなく1983年に二度目の解散をした。1997年に行なわれたボスニア救済コンサートをきっかけにオリジナルメンバーで再々結成(『ボスニア(Bosnia)』)。途中でファーナーはソロ活動のためにバンドを離れたが、2012年現在もグランド・ファンク・レイルロードはライヴなどの活動を行っている。
















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