永遠の夢に向かってドリーム・ラヴァー

 

ドリーム・ラヴァー

ドリーム・ラヴァー

















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Bobby Darin - Dream Lover





































2005年前半は音楽伝記映画が3本も立て続けに公開されたことで話題になった。まず2004年12月に公開されたコール・ポーターの『五線譜のラブレター』(De-Lovely)、続いてレイ・チャールズの『レイ』(Ray)、そしてボビー・ダーリンの『ビヨンド The シー ~ 夢見るように歌えば』(Beyond The Sea)である。 『五線譜のラブレター』はコール・ポーター役(ケヴィン・クライン)が本人に似ていないのと、音楽が満載だったことは嬉しいのだがストーリーとのバランスに欠けていたため、十分な感情移入ができなかった。『レイ』は3本の中で最も成功した映画だろう。アカデミー主演男優賞を獲ったジェイミー・フォックスの圧倒的な演技とソックリさんぶり、多少脚色をまじえオーソドックスだが巧みなストーリー展開やヒット曲の連続に大満足だった。そして「フランク・シナトラに追いつき、追い越せ」を目標に37年の人生を駆け抜けたボビー・ダーリンの映画は、ひとひねり加えた脚色が面白かったしダーリンに扮したケヴィン・スペイシーの達者な歌と踊りに陶然とした。子供の頃からダーリンをアイドルにしていたケヴィンは、この映画の構想に10年以上を費やし、その上製作・監督・脚本・主演をすべてひとりでこなし、ダーリンの成功と挫折、歓びと苦悩をスクリーンの上に蘇らせた。自作のロックン・ロール曲による成功やスタンダード・シンガーへの転身、青春映画のスター、サンドラ・ディーとの結婚といったエピソードは日本でもよく知られているが、ダーリンという芸名の由来や出生の秘密、1960年代後半からの活動の様子や心の変化など、かなりのファンでなければ知りえないような事実も解き明かされており、そういった意味でも興味の尽きない映画だった。ボビー・ダーリンこと、本名ウォルデン・ロバート・コソートは1936年5月14日にニューヨークのブルックリンで生まれた。両親はイタリア系の移民だが、姉が実の母親であることが映画の中で打ち明けられる。8歳の頃患ったリュウマチ性の熱病のために心臓障害を起こし25歳までしか生きられないと宣告されるが映画では15歳になっている。持ち前のファイト精神で運命に立ち向かっていく。彼を支えたのが音楽であり、フランク・シナトラであった。プロのシンガーとして世にでることを決意したダーリンはシナトラが出演していたニューヨークの超一流クラブ“コパカバーナ”のステージに立つことを夢見て成長していく。ある時ニューヨークの街角で見かけた中華料理店 “Mandarin” のネオンから “Darin” という芸名を思いつく。1956年デッカ・レコードとの契約に成功したがうまくいかず、1957年にアトランティックの傍系アトコに移籍し、20分で書き上げたという自作の「スプリッシュ・スプラッシュ」が1958年にヒットして世に出た。この曲はヒット・チャートの3位にランクインし、続いて「クイーン・オブ・ザ・ホップ」が9位、「ドリーム・ラヴァー」が2位となり、3曲すべてミリオンセラーを記録して、25歳までに有名になるという誓いは早々に達成された。『九月になれば』(1961年)や『電話でご用心』(1962年)、『ステート・フェア』(1962年)といった映画にも出演し、『九月になれば』で共演した清純派のサンドラ・ディー(代表作は『避暑地の出来事』『恋愛留学生』)と結婚した。1959年時が来たと判断したダーリンは予定の行動に出た。スタンダード・シンガーへの転身である。会社やマネージャーらの反対を押し切って録音したアルバム『ザッツ・オール』とシングル・カット「マック・ザ・ナイフ」は大ヒットとなり、グラミーのレコード・オブ・ザ・イヤー(「マック・ザ・ナイフ」)と最優秀新人賞を受賞、大人のファン、音楽関係者から第二のフランク・シナトラと俄然注目を浴びるようになった。レコード・オブ・ザ・イヤーはシナトラの「望みを高く」を破っての受賞である。シャルル・トレネが書いたシャンソン「ラ・メール(海)」の英語版「ビヨンド・ザ・シー」も翌1960年に『ザッツ・オール』からシングル・カットされてミリオンセラーとなった。1961年シナトラがキャピトルを去った。尤も契約分の録音をすべて完了するのは1962年になってからであったが...。シナトラの穴を埋めるべく、キャピトルはバラードを得意とするヴィック・ダモンとスインギーなナンバーが得意なボビー・ダーリンというふたりのシナトラ派のヴォーカリストを迎え入れた。ダーリンは1962年10月にリリースされたスタンダード・アルバム第1弾『オー・ルック・アット・ミー・ナウ』でファンとレコード会社の期待に応え、1964年にもやはり高水準のスタンダード・アルバム『ハロー・ドーリー・トゥ・グッドバイ・チャーリー』を発表したが、その一方でワークソングやスピリチュアル、ラテン、民謡までカヴァーした『アーシー!』、カントリー・ソングに挑戦した『ユア・ザ・リーズン・アイム・リヴィング』、フォークの世界に浸った『ゴールデン・フォーク・ヒッツ』といったアルバムを発表するなど音楽への関心は幅広かった。1966年古巣アトコの親会社アトランティックに迎えられ、映画音楽集『いそしぎ』やミュージカル集『イン・ア・ブロードウェイ・バック』で好調さを持続したが、1963年の映画『ニューマンという男』(主演グレゴリー・ペック)でアカデミー助演男優賞にノミネートされながら落選したことでプライドを傷つけられ、敬愛していたロバート・ケネディ上院議員が1968年に暗殺されるなど、世の中や自分にたいする絶望や焦燥感からキャリアは停滞してしまう。1967年に最愛の妻と離婚したあと、1970年代に入って往年のエネルギッシュなボビー・ダーリンが戻ってくるが、心臓の病は確実に体を蝕み、ステージのあとには酸素ボンベが欠かせなかった。そして1973年暮れ緊急入院、12月20日心臓手術の最中に息を引きとった。波乱万丈の37年間だった。なお、死の9か月前にNBCテレビで収録・オンエアされたワンマンショウが『ボビー・ダーリン:マック・イズ・バック』としてアメリカでDVD化されているが、死の影などまったく感じさせない闊達なステージとエンターテイナーぶりに魅せられる。















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