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永遠の夢に向かって映画 『COBAIN モンタージュ・オブ・ヘック』

 

映画 『COBAIN モンタージュ・オブ・ヘック』

映画 『COBAIN モンタージュ・オブ・ヘック』















”俺達は好きで落ちこぼれをやってるんだ。一般大衆の一員にはならないことにしたんだよ”



”ロックの歌詞は聞き取れなくていい”



”売れたいが、売れるような曲は大嫌い”



”歌う時は上っ腹に一番精神を集中させるんだ。そこで叫び、そこで感じる。俺の中のすべてが、まさにここから出てくるんだ”




















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Kurt Cobain: Montage of Heck 2015



































COBAIN モンタージュ・オブ・ヘック (Kurt Cobain: Montage of Heck)

COBAIN モンタージュ・オブ・ヘック (Kurt Cobain: Montage of Heck)はニルヴァーナのフロントマン、カート・コバーンについてのドキュメンタリー映画。2015年作。ブレット・モーゲン監督、コバーンの実娘、フランシス・ビーン・コバーンが製作総指揮(co-executive producer)として関わっている。モーゲンはコバーンの寡婦コートニー・ラブからアプローチを受け、2007年からこの映画に携わった。コバーンの伝記作品のうち、家族が全面協力したものとして初である。監督とチームは家族の許可の元、コバーンが残した個人的、また親族によるアーカイヴにアクセスする事が出来た。映画のタイトルはコバーンが1988年に4トラックのカセット・レコーダーで製作したテープのタイトルに基づくもので、「巨大なモンタージュ」もしくは「苦心の作のつなぎ合わせ」といった程度の意味。これは2つのヴァージョンがあり、一方は36分、一方は8分の内容。モーゲンはインタヴュー映像の使い方などは『レニー・ブルース』(1974年作)を参考にしたという。映画作中では1994年3月にローマで昏睡状態に陥る事件(ラヴによればこれが最初の自殺未遂)までを扱い、翌月のコバーンの自殺の直接の経緯については触れられていない。



カート・コバーン公式映画『COBAIN モンタージュ・オブ・ヘック』

先月アメリカでも放映され、絶賛を呼んだカート・コバーン初の公式ドキュメンタリー『COBAIN モンタージュ・オブ・ヘック』がついに日本でも公開される。監督のブレット・モーゲンなどはドキュメンタリー作品としてこの作品が画期的であると自ら宣言しているわけだが、確かにこれは滅多にお目にかかることはできない、生々しくもドラマティックなドキュメンタリー作品に仕上がっていて、題材がカートであるだけにまだ癒えぬ傷口を見せつけられるような生々しい体験となっている。文句なしにカートとニルヴァーナを扱ったドキュメンタリーとしては最高峰の内容になっている。まずなによりもありがたいのは、ドキュメンタリーの語り手として登場する関係者がカートの肉親、バンド・メンバー、交際相手、妻などとごくごく近い人間に限定されており、しかもその発言がかなり本質的なものだけにとどまっていることだ。こうしたロック・ドキュメンタリーはややもすると、「証言者談」をただ無数に繋ぎ合わせただけのものになりがちだが、そのような発言を極力抑えつつ、物語を巧みに綴っていくモーゲンの演出は見事としか言いようがない。

その一方でカートの物語とニルヴァーナの物語については数多くの書籍なども刊行されていて、ある意味で消費され尽くした感もなきにしもあらずで、これを今更どう語るのかというのがこの作品を観る前のぼくの気になっていたところだったのだが、実はこれがこの作品の一番すごいところなのだ。かねてからモーゲン監督は、カートが遺した創作ノート、書きつけ、絵画、落書き、カセット・テープなどすべての遺品をこの作品に投入したと語っていたが、この作品におけるカートの物語はまさにそれらの遺品によって綴られるものになっているのだ。たとえば、カートは子供時代からさまざまなイラストや絵画を描き残していることでも知られていて、これはなにもこの作品で初めて公開されるものではないし、むしろ、さんざん観てきたといえるものでさえある。基本的にどれも薄気味悪い絵が多いのだが、モーゲンはこうした絵がいつ、どういう状況でどういう心境で描かれていたのかということも想像的に捉えて、それをそれにふさわしいタイミングで語りのひとつとして映し出していくのだ。すると、こうした数々の怪物や胎児などを描いた気味の悪い絵は、ただ「病んでいたんだな」というこれまでの印象をほのめかすものではなく、カートからその時々に直に発された叫びとして伝わってくるわけで、こうした数々の絵の文脈をモーゲン監督が捉え直した手腕には感銘を受けた。あるいはカートが黙々と制作していたミックス・テープの不気味な語りの使い方といい、折に触れてカートの様子や佇まいをアニメとして再現していくところなども、どこまでもカートの歩みを俯瞰するものではなく、カートと同じ目線で追体験するものになっていてそこが非常に迫力に満ちているのだ。

また、子供時代から死の直前まで、ビデオや8ミリフィルムなどの映像もふんだんに使っているところも作品の肉付けとなっていて、その視覚的な映像だけでも圧倒的な情報として迫ってきて、やはり活字だけで追ってきたカートの生い立ちと生き様の知識とは迫力が違うのだ。ただ、こうした素材を使っていくにあたって、やはりどうしても気になるのがカートの妻、コートニーがどういう心境でこうした映像などの使用を許したのかということだ。ある意味で、このドキュメンタリーの終わり方は衝撃的なもので、見方によってはコートニーにとってはあまり気持ちのいいものにはなっていない。場合によっては、観る者がコートニーに対して悪意を持った解釈をすることも可能なものになっている。しかし、それでもコートニーがこの作品に一切口を挟まなかったというのが、コートニーがこの作品に賭けた決意を表してもいる。そして、モーゲン監督もそれに応えて、ぎりぎりのところまで描写と語りを突き詰めてみせているのだ。

なお、当たり前の話だが、このあまりにも悲しく切ない物語を爆音として鳴らしたのがニルヴァーナの音楽だったわけで、であればこそ、この作品で使われる音源の数々は6月27日からの一般公開で映像とともに劇場で体感することをお勧めしたい。

(高見展)



ROCK 悲劇のロックスター、カート・コバーン誕生

カート率いる“ニルヴァーナ”のデビューアルバムは、1989年にインディーレーベルから発売された「ブリーチ」。その 2年後、メジャー第1弾アルバム「ネバー・マインド」が発売されました。アルバムに収録された、「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」がヘビーローテーションとして流され、その荒々しいサウンドに若者たちは熱狂しました。アルバムは発売1か月でゴールド・ディスクに。 さらに1か月後、プラチナ・ディスクになりました。こうして、“ニルヴァーナ”は、アメリカ中に大“グランジ・ロック(“ニルヴァーナ”発祥の地でもある、シアトルを中心に一大ムーブメントとなった。グランジ=汚れた、薄汚い)”旋風を巻き起こしたのです。しかし、メジャーでの成功に大きな違和感を持っていたカートは、ドラッグとアルコールにおぼれるようになりました。そんな中で発売されたアルバム「イン・ユーテロ」は、「レイプ・ミー」(私をレイプして)という楽曲のように、周囲の状況に追い詰められたカートの精神状態がそのまま現れたような仕上がりに……。そして、この「In Utero」が、“ニルヴァーナ”最後のアルバムとなったのでした。1990年代、人々に強い印象を与えたバンドはたくさんありました。しかし“ニルヴァーナ”は、27歳のカートの衝撃的な死で伝説のバンドとなったのです。



DRUG 断ち切れなかった、ドラッグ

カートはもともと商業的なロックが大嫌いな性格。そのためガンズ・アンド・ローゼスや、ボン・ジョヴィといったロックバンドを、常々批判し続けていました。特にガンズ・アンド・ローゼスとは楽屋で殴り合いのけんかを始めるほどの犬猿の仲でした。しかし、「ネバー・マインド」を発表後、気付けば自分自身が“メジャー”という道の上に乗っかってしまっていたカート。いつの間にか、自分自身が“ロックスター”になってしまっていたのです。アンダーグラウンドで、退廃的なロックが理想だった彼にとって、メジャーになって、スター扱いされる環境は苦痛そのもの。幼少のときに、親が離婚。学生時代は、不登校……。孤独な日々を送ってきたカートにとって突然の環境の変化は、不安を募らせるものでした。ストレスやプレッシャーから逃れるために、カートはドラッグ、そしてアルコールにおぼれていったのです。不安、そして長く患っていた原因不明の胃痛を和らげるために、ドラッグの量はどんどん増えていき、コカイン、ヘロインという恐ろしい薬物は、次第にカートの精神、そして肉体をむしばんでいったのでした。



LOVE コートニー・ラヴとのロマンス、そして娘

1991年、カートは、スパッシング・パンプキンズのビリー・コーガンの元カノだったコートニー・ラヴと交際スタート。ちょうど、「ネバー・マインド」が大ヒットし、その成功と反比例するようにカートの精神状態がもろくなっていたときに、そばにいたのは恋人のコートニーだったのです。アルバムの大ヒットに合わせてドラッグの過剰摂取(オーバードーズ=O.D)で、病院に搬送されたカート。この日は皮肉にも、“ニルヴァーナ”のアルバム売り上げが全米チャート1位を記録し、みんなが祝杯に酔いしれていた夜でした。人気とともに、神経衰弱に陥るカート。そんなカートをそばで支えながら、コートニーはこの事件の約1か月後にハワイでカートと結婚。8月には、娘のフランシスが産まれます。ちなみに、この出産のときもカートはコートニーと同じ病院に薬物のリハビリ治療のために入院していたそうです。後に有名になった、カートと産まれたての赤ん坊の写真に見られる、うつろなカートの眼差しは、薬物の禁断症状と戦っていた最中での記念写真だったことを物語っているのです。



DEATH そしてロックスターは燃え尽きた

1994年4月5日、カートはシアトルの自宅でショットガンで自らの頭を撃ち抜いて自殺。彼の死は、多くのファンに衝撃を与えました。長年患っていたそううつ病、そしてスターとしてのプレッシャーと戦い続けた彼は、薬物におぼれ、 “死”を選択したのでした。彼の苦悩の深さは、自殺後に出てきた紙切れ1枚にびっしりと書かれた“遺書”に現れていました。その内容は、“ステージで精いっぱい楽しんでいるようにファンに見せかけて演奏する自分”と“ステージを、まったく楽しめない、孤独な自分自身”とのギャップに苦しみ抜いているロックスターの悲しい真実でした。「音楽を作ることも、聴くことにも興奮しなくなった」「ステージに上がる前に、タイムカードを押したい……」遺書の中にある言葉の節々から、カートがミュージシャンである前に“ロックスター”という仕事を必死にこなそうとしていた姿が浮かび上がります。観客に対しての罪悪感、自分に対しての憤り、すべてのものに耐えられなくなり死の1か月前に、2度も自殺を図っていたカート。その苦しみは計り知れません。カートの死を語るとき、死の原因と挙げられるのは妻のコートニーです。しかし、カートの遺書の最後には、こんな切ない言葉がありました。「そのまま進み続けてくれ、コートニー、自分のため、そしてフランシスのために。僕がいない方がずっと幸せな彼女の人生のために……。君たちを愛してるよ、愛してる」
















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